演奏家の振る舞いと身体をめぐるインタビュー②亀井庸州さん

最近、これまで習ってきたことをほとんど「やめ」て、自分で自分なりの演奏法を見つけた、というヴァイオリニストの亀井庸州(かめい ようしゅう)さん。亀井さんは、現代音楽を主に演奏しながら、常に演奏法や歴史のことを学び続けたり、それをレッスンで応用したり、とても研究熱心なひとである。いわゆるマッチョな感じではなく、おだやかなんだけど、クールな振る舞いをしている。インタビューの最初は、日本でいわゆるクラシック音楽を習うことについての話題から始まった。

音楽の原体験

亀井:日本で音楽を始める環境って、たとえば5歳ぐらいから始めて、音楽がなんなのかよくわからないうちから、先生や親から「できてる・できてない」を問われ続けますよね。白か黒かの世界だから、独特の音響空間や緊張感が音楽の原体験、という生徒さんも多くて、音楽と向き合うことにめちゃくちゃ構えちゃう。自分もそういうところがあったから、わかるけれど。

たとえば、ご飯を食べるために身構えて、儀式のようにドキドキすることはないじゃない。トイレに入ったり道を歩いたりすることと、音楽ってほんとうは同じはずなのに、最初から特別なものとして音楽をやる、日本の独特な習慣ですよね。習い事、価値の高いものとして、親御さんも真面目であればあるほど格式高く、先生に対する礼儀や態度、家での練習姿勢を子どもにしつけていく。それが一般的というか。とくに、ヴァイオリンは難しい楽器だということもあるけれど。

加藤:ピアノだと、またちょっと事情が変わってくるんですかね。

亀井:ピアノだったら、まだ鍵盤を見て子ども自身の感覚で判断しやすいかもしれないけれど……生徒の親御さんに、「親がつきっきりでなくても、子どもひとりでできるような練習方法を教えてください」と言われたことがあるんだけど、小学校低学年の子が、ヴァイオリンの弓をまっすぐ、肘をこう使って、というのを、ひとりで修正するのは、ほぼ不可能です。指板にシールを貼っても見づらいし。

海外だと、ヴァイオリンは小学校5、6年生くらいまで親がついてあげて、ピアノは小学校1年生くらいから自立して練習できると、基準が明文されていると聞いたことがあります。ソースは忘れちゃったけど。

加藤:亀井さんも最初、いわゆるお稽古事から始めたんですか?

亀井:それ以外、なくない?(笑) うちは、叔父が昔やっていたヴァイオリンがあったし、母親もピアノの先生だったので、よけい何かやらせたいとは思ってただろうけど……4,5歳の頃、うちにあったヴァイオリンを床に置いて、こうやって音を出して遊んでたのを覚えてる(両手で弓を持って、床の上のヴァイオリンをこする身振り)。なんか面白くて。それで「ヴァイオリン始めてみる?」って聞かれたことは覚えてます。

加藤:最初は、どんな先生についたんですか?

亀井:桐朋の先生につきました。生粋の桐朋的な先生で、フォームもすごく厳しかった。左手のフォームは、はじめからめちゃくちゃ細かく言われてました。人差し指と親指の間を「トンネル」って言って、ティッシュを詰めたり。「音楽を弾いて楽しみましょう」みたいな感じじゃなかったよ。

ボーイングはけっこう覚えてます。結構しっかり固めて、カチッと持ってた……ちっちゃい子だから、っていうのもあるかも知れないけど。中学のときに、いろいろあって一回ヴァイオリンをやめて、再開したあとについた先生が芸大出身で、けっこう手を柔らかく使う人で、だいぶ変わりました。指弓をやったり、肘を上げるのをやったり。左手の形は、割と悪くない形になってたみたい。

右肘を上げるのをやめる

加藤:さっき「いままで教わってきたことをやめた」とおっしゃっていたけれど、いまの奏法はどんなかたちですか?

亀井:右肘を上げるのをやめました。いままでは生徒さんにも、「肘を上げて腕の重みを乗せる」ように教えてたんだけど、ずっと辻褄があわないと思ってたんです。肘を上げるために上方向に力を使ってるのに、それをさらに降ろして重みを乗せるって、1+2-4みたいで、整合性がない。生徒さんも混乱することが多いし。

それで、1800年代初頭ぐらいに活躍したヴァイオリニストのイラストをみていたら、軒並み肘が下がってて。もちろん、弓の構造や弦の種類は違いますけど、そういう時代があったなら、それもひとつの正解なのかもしれないとおもって試してみたら、すごくやりやすかった。どういうふうに肘を使って、どこにどう重さを乗っける……ってことは、ほぼ説明できるようになりましたね。

加藤:それは、いわゆる現代曲とクラシック、どちらを弾いているときでも変わらない?

亀井:基本は変わらない。肘をあげるのがどうかというのも、価値観の違いで、それぞれの身体つきの相性もある。これは僕の考えで──現代型の、3000人ぐらい入るようなホールで、オーケストラをバックに音量を出すとき、細かいニュアンスはそんなに伝わらない。そんじょそこらの弾き方だと埋もれちゃうし、テンポも自分が引っ張っていく。「パワー100%」みたいなところに、どうやってニュアンスを足すか? 野球のボールを投げるのと同じで、  二の腕とか肩甲骨から腕を振る方が、遠心力は使える。 そういう瞬発性、「音を放り投げる」使い方として、右肘を上げるのが主流になっていったんじゃないかと。

「ヴァイオリンを弾く」って一言で言っても、そこには、数千人単位のホールのアスリート的な弾き方から、アイルランドの伝統的な演奏まで、いろんな幅がある。 今言った、肘を下げている弾き方は、おそらくヴァイオリンが発明されてからしばらく、ずっと主流だったんじゃないかと。昔は教会とか、宮廷の小部屋とか、劇場も1000人単位ではなく、オーケストラもそんなに音が大きくなくて……音圧よりも、音色やニュアンスや音程感の影響が色濃い。

そういう時代には肘を下げる方が、手首で音圧のコントロールもできる。現代音楽も、ひとくくりにはできないけど、細かいニュアンスが大事だし、音響的な作品も流行ってるし、そういう意味で、僕のいまの弾き方はけっこう通用するんじゃないかな。──だから、僕にとっての音楽は、拡声器や街宣カーでみんなに宣言するんじゃなくて、同じ部屋で、こうやって向かい合って話してるメンタリティ。

演奏時の再現

加藤:ヴァイオリンを演奏しているときの身体を、ちょっと再現してもらってもいいですか?

亀井:足はこんな感じで、広い。でも、なるべくナチュラルになるように工夫はしてて。鎖骨の付け根と、左手の親指、もしくは人差し指の付け根の辺りで、バランスを常に取りながら……

加藤:じゃあ、楽器や左肩まわりはずいぶんフリーですね。

亀井:そうそう。だから喋ってるテンションで、そのまま肩に楽器を持ってる感じ。基本、肩の関節は拘束しない。というのは、腕自体は鎖骨から、肩・関節・肘・手首というふうに伸びてます。体の接続してる部分は、本来、自由に浮いてるはずなので、そこを楽器で挟んじゃうと拘束されて、弾きにくい。ヴァイオリンと肩はいつでもフリーにしています。肩当てがある人は、片手と鎖骨でヴァイオリン、そこの3点でヴァイオリンを支えているわけ。

左手も多少使ってるかもしれないけど、弓と弦の接点に8割ぐらい負荷が来てる。私のやり方だと鎖骨と左手のあいだに、ちょうど橋がかかってるような状態になるので、この2つの支点の真ん中を、弓がおさえる。だから安定する。右手だけではなく、左手からも圧を作るという考え。

亀井さんが描いてくれた図

顎と鎖骨で支えて、楽器が低くなる人の場合、楽器を安定させるには、左肩を上げて固定するしかない。制作途中の橋の上と、完成した橋のうえと、どちらに物を乗せる方が安定するかと言ったら、後者ですよね。

加藤:なるほど……尺八のときはどんな姿勢ですか?

亀井:バランスは人によって違うから、それぞれ工夫しないといけないんですけど。脇も開いていると呼吸が浅くなるので、ちゃんと腕を落として、顎をすこし引いているような感じですかね。

加藤:顎を引くのは、頭がちゃんと身体に乗るために?

亀井:それもあるけれど、唇の周りの筋肉って、めちゃくちゃ繊細なんですよ。薄い筋肉がたくさん集まっていて、こういうところの力みが、じかに音に影響してくるから。長時間、どこかに変な力が入った姿勢で弾いていると、だんだん音が出なくなってくるので、頭をちょっと乗せる感覚はあるかもしれない。

加藤:ヴァイオリンと尺八だったら、どっちのほうが身体にしっくりきます?

亀井:(再現しながら)尺八のほうがより自然かもしれない。ヴァイオリンに比べて、楽器が心臓より下にあるので。

空間との関係

加藤:さっき、部屋の中でふつうに話してるくらいのメンタルで演奏する、とおっしゃってましたけど、それはホールでもかわらない?

亀井:あくまでメンタルは。例えばオペラシティの小ホールくらいで弾くときは、全然通用する。本当につぶやいたような音も、届くから。

加藤:空間に規定される身体というか。演奏以外の面もかわる?

亀井:ちょっと影響されるかもね。とくに意識するわけじゃないけど、たとえば客席が高いところでは、胸が上向きになるかな。話すとき、上の方にいる人いるのに下を向いて喋らないでしょ。それと同じで、話相手の位置によって、自分の体の受け方が変わってくる。

加藤:じゃあ、本番直前、舞台袖とか楽屋とかにいるときから入場してお辞儀する間に、ルーティンや、考えてることはありますか?

亀井:ルーティンはないけど、子供の頃に、人前で何かをやるときにわくわくした気持ちを心がけるようにしてます。お客さんは、わくわくしながら待ってくれてるわけだから、こっちが「しんどいな」みたいな感じでやると温度差があるわけで。

ただ楽曲によっては──アンサンブルが難しいとか、注目度が高い本番とかだと、リスクをいかに減らすか、ということも考える。ネガティブ思考ってわけじゃないけど、リスクヘッジに神経が尖ってる。最近だったら、ペダルとタブレット問題もあるし、譜めくりの準備もしておかなきゃいけない。

技巧的にも、体の状態が平常通りかどうか気にしていく。舞台で構えた瞬間に、「いつもと身体が違う」ってわかったりするよね。一瞬で身体と一体化するときもあれば、違和感があって思ったように音程がはまらないときもある。普段練習ではないような気掛かりが、ひとつあるだけで、感覚が全部マスクされちゃうこともあって……それが、僕は肘を下ろすようになってから減った。リスクを克服することと、わくわくした気持ちで出るようにしよう、ということがザッピングしてる。で、結果はもう、毎回違うよね(笑)

加藤:ステージ上の振る舞いとか演奏に関わることで、「男性らしく」とか言われた記憶ってありますか?

亀井:「男性らしさ」の定義次第だけど、少なくとも自分が、具体的に「男らしくしろ」と言葉や態度で言われた記憶はないです。強いて言うなら、6歳ごろとか、発表会でおぼっちゃまっぽい、かわいい格好をするのは好きじゃなかったのと、小学生のころは、ヴァイオリンをやっていること自体が「女っぽい」と思っていて、小学校の友達には、率先して言ってなかった。「空手を習っている」とウソをついてまわってました(笑)

ステージ上では、学生時代に父親から「胸張って歩けよ」とか、言われた気がするかな。ちょっとズレるけど、とある音楽業界の現場で、男性はチンピラっぽく、女性はキャバ嬢的に振る舞う、みたいな習慣を目撃したことはあります。

加藤:なるほど……こう、亀井さんは、普段とステージ上のいかたが、あまり変わらない気がします。演奏する身体になる人もいるけれど、亀井さんはそうじゃないというか。

亀井:体が勝手に緊張しちゃうときもあるけれど、さっき言ったように、喋っている延長で人前でやる、っていうのがモットーなので。日常の、「家の茶の間でご飯食べてたら、勝手に人に見られた」ぐらいのテンションの本番ができたら、どんなにいいかなと思ってる(笑) 

それ、留学したときのベルギーの先生に言われたことなんだよね。日本人の先生で、体の使い方の授業もしてて。confience phisique だったか、「身体の意識」「動きの意識」だったかな。

上手い」じゃなくて「すごい」

加藤:「confience phisique」というのは、どんな授業でしたか?

亀井:みんなでアレクサンダー・テクニーク的な体操をして、ストレッチして、それから車座になって、真ん中でAさんとBさん、ふたりの生徒を組ませる。 Aさんに苦手な箇所を弾かせて、先生がアドバイスしながら、BさんがAさんの腕を持ってあげたり、サポートしてあげる、みたいな。

その授業で先生が言ってたのが、「ヴァイオリンを弾くのはお皿洗いと同じ」とか「皿を洗うときのスポンジの動きと、弓の動きは何も違わない」とか「あなたはヴァイオリンを弾くとき、急に特別視して身体が構えちゃうんだよ」とか……自分ではそんなつもりはなかったけど、ヴァイオリンを弾くとき、身構える人は多い。

日本の音大にいたときは、特殊な技法として極めたいという思考があって。でも、ベルギーで現地で出会った天才的な奏者たちが、軒並みすごくナチュラルなんですよ。努力しまくった結果めちゃくちゃうまい、じゃなくて、ナチュラルに音楽に向き合っていて、癖が強いというか(笑) みんなめちゃくちゃ上手いのに、酒場でも毎晩バリバリに、ジャズのアドリブ大会をしてる。ポーランドから留学してきたエリザベト・コンクールを目指してるようなグループも、セッションをすると、空間がバーンって動くんですよ。身体がもう芸術的に柔らかい。「上手い」じゃなくて「すごい」。

たとえば、観光地に行って、すごい滝を見る。「2000年前から自然に形成された滝です」って言われて、すげえな、こんなのできるんだ、っていうのと同じ感じ。自然体で演奏していて、何か必死で頑張っているものを見せられるんじゃなく、自然現象、芸術的な動物として、現象を見てる。しかも、話すと普通(笑) 

そこで音楽の価値観が変わりました。すごい音楽家ほど普通だな、って。音大時代はスーパーマンになる=上手になるって思い込んでたけれど、等身大のまますごい人こそ、本当にすごいなと思って。

加藤:そう言われてみると、日本のアカデミズムって、いまだにかつての西洋文化への憧れの残像みたいなものを、追いかけているのかもしれませんね。昔、日本にやってきた西洋的な人々って、とうぜん、軍人とかエライ人なわけで。そういう人たちの振る舞いがいまだに残ってるのかも。

亀井:西洋人にとっての音楽は、 家具とか空気とかインフラとかと同じだけど、 日本人にとっては、いまだに調度品なのかもね。若い音楽家世代はだいぶ変わってきた感じはあるけど、一般層にとっては……

尺八と西洋音楽

加藤:自分が西洋音楽をやることに対して、摩擦というか、なにか、感じることはありすか?

亀井:一番わかりやすいところで言うと、尺八をやってるときの自分の居心地と、ヴァイオリンやってるときの居心地ってやっぱりちがう。結構デリケートな部分だから、あんまり浅い言い方はしたくないんだけど、ヴァイオリンをやるときの方が一段ギアを上げて、処理しながら弾く感じがある。尺八の場合は、処理する前にも出てくるものがあって……

喋るときって、自分で「こう喋ろう」とか「こういうことばを使おう」とか考える前に、自分のなかから発してくるものが先に出てきて、自分の語りになる。尺八は、それぐらいナチュラルで、フィルターを通さずにそのままやってる感じが、とくに古典の曲をやるときにあって。

ヴァイオリンも何十年もやってきてるから、自然に出てくるものがたくさんあるけど、 細部になってくると、やっぱりそういう、「処理」がある。即興の場合はちょっと違うかな。音程をどう取るか、 この装飾はどういうタイミングで取るか、 この音はどのくらい伸ばして、どの辺で切ったら綺麗──とか、そういうことを「処理」して、作る。1段、何かが挟まっている感覚です。バッハの時代の人たちは、僕が即興やってるのと同じぐらい、ほぼ処理なくやってたかもしれないけど。

それから、ヴァイオリンの造形ってカールしてるけど、日本の感覚って、なんとなく、ああいうカールに馴染みないじゃないですか。髪の毛とか(笑) 尺八だと、そういう感覚もない。もっと思い込みの部分──何代も前から日本にあって、自然に自分が尺八を持ってるという。

だから、僕がこれから歳をとって、めちゃくちゃボケたら、ヴァイオリンより尺八を吹いてる可能性があります(笑) 「ヴァイオリンは自分でやり始めた」と言いつつ、親にやらされた部分もあるのに対して、尺八は、18歳のとき、自分でわざわざ選んで、自分で始めたわけだから。自分の同一性と、より近いものが尺八なのかな。

音楽との健全な向き合い方

注:ここでいったん、お話を終えようとおもっていたのだが、亀井さんが考える作曲家との関係性や、西洋音楽の問題意識について話が盛り上がったので、残しておく。

亀井:いままで、誰かが作った音楽を消費するのが当たり前だったけれど、本当は音楽って、みんな、それぞれのなかにあるんじゃないかとおもう。たとえば3, 4歳ぐらいの子どもって、勝手にじぶんで歌ったりしてる。100万人いたらその100万人のなかに、ひとつひとつ新曲がある。そういう世界が、ほんとうの健全な音楽の世界じゃないかと。

CD文化がなくなって、ストリーミングがなくなって、YouTubeにもAIがつくる音楽が出てきて……いま、みんなそれぞれ、自分のオンリーワンの音楽を、その場で作れるようになったわけじゃないですか。そうすると、市場に吸い込まれた音楽が解体されて、究極のミクロというか、個人のものになっていくのが理想なのかなと。

ぼくの駆け出しの時代は、クラシックの曲を演奏することが主流で、それに対して、新曲をやるのはインディビジュアルな世界、その場でしか──作曲家と“わたし”の関係のなかでしか生まれない音楽。ぼくはそっちのほうが、音楽の健やかな姿に感じるんです。たとえば、クラシックの有名な交響曲を、神さまが作った曲みたいに崇めて、演奏して、聴く。そういう楽しみ方ばかりだと、ちょっと、健康的じゃないとおもうんです。加藤さんもそうおもいません?

加藤:わたしも、そうおもいます。「そういう楽しみ方ばかりじゃない」とわかっていれば、いいんですけど……だからほんとうは、亀井さんが言ったように、たとえ300年前の人であろうが歴史に名を残す人であろうが、インディビジュアルな感じで向き合うほうがいいんじゃないかと。

亀井:作曲家も、そうやって付き合ってもらうほうが、うれしいんじゃないかな。「そんな拝まれてもな」みたいに困ってるかも(笑) 特別視されて拝まれることに、作曲家がやりたかったことの本質はあまりなくて。多少アラがあったとしても、作曲家の生の感覚みたいなものをやる。「それは作曲家に対して失礼」みたいな捉え方もあるかもしれないけど……

偉い人が「先生」と言われて孤独を感じるのと同じ現象が、クラシックの作曲家にも起きてるんじゃないかと。「けっきょく人だよね」みたいなスタンスのほうが、その作曲家のほんとうの温度感を感じられるんじゃないかな。

西洋音楽をやっている日本人

加藤:西洋音楽を日本人がやるということと、人種差別の問題は避けて語れないはずなんですけど……日本で西洋音楽やクラシック音楽について語るとき、差別の話ってなかなか表に出てこない。みんな口をつぐみますよね。

亀井:なかったことにするよね。20年前の話だけど、ベルギーで「なんで日本人なのにクラシック音楽をやってるの?」って素朴に言われたのを覚えてる。「わざわざなんでここに勉強しにくるの?」って。

加藤:それって、その質問者のなかに「西洋音楽は西洋人や白人がやるものでしょ」っていう前提があるから出てきた問いですよね。

亀井:ベルギーで興味深かったのは、古楽の講習会に参加したときと、コンテンポラリーや即興のコミュニティにいるときと、(日本人の)扱いがぜんぜん違って。即興系の人はすごく話しかけてくるし、友達もどんどんできる。

でも古楽の講習会に参加したときは、日本人やアジア人に、向こう(白人側)から話しかけてくることはほとんどなかった。過去の芸術に関心を向けているときは、アジア人の存在はぜんぜん関係ないけど、コンテンポラリーや即興をやっているときは、多文化とか新しい情報とかが価値の中心。

やる音楽によっても、立ち位置は変わってくる。「クラシックをやっている日本人」という存在は見えにくいだけで、大きい要素なんじゃないかと。現代音楽のいいところは、そういう問題も含めてぜんぶ価値化できるというか。世の中の不条理とか、そういう部分もすべて作品としてとらえる目を持っている。

加藤:そうなんですよね。だからこそ、現代音楽に期待することはたくさんあるんですけど、なかなか難しいところもあるのかなと。

亀井:いわゆる「現代音楽」に関わる一人一人は、それぞれの価値観を持っているんだけれど、コミュニティになると、そのなかでの尺度や価値観がつよくなってしまう。実際には、モーツァルトの曲を弾くのと、ほとんど変わらないメンタルになってしまうというか。

加藤:そういう意味では、「クラシック音楽」を信じる人と同じなのかもしれません。

亀井:それを解体していける人がいないと、100年後に新しい芸術をやる人はいないよね。でもさ、「芸術ってなに?」っていうと、反体制だったり、イデオロギーを解体するのが役割とされていたりする。そう仮定すると、「イデオロギーに染まった芸術は芸術なのか?」っていう。ぼくはベートーヴェンの『第九』って、結構、その走りなのかなとおもうんですけど。

加藤:イデオロギーに依存した上で、それを肯定するのか、解体したり破壊したりするのか、みたいな。

亀井:そもそも、その「イデオロギーを破壊しよう」みたいな発想自体が、西洋的な発想なんですよ。

加藤:ああ、なるほど……

亀井:「環境を大切にしなきゃいけない」といいながら、化繊の服を着てるみたいな(笑) 最近はもう、山のなかで、だれの目にも触れずに暮らすのが最適なのかな、とおもったり……

加藤:誰からも見られない、ということが大事なんですかね。見られることを見ている身体からはみ出すことが。

亀井:たとえば昔の、絵巻物が主流だったようなころの日本人には、そういう「見られる」感覚はなかったのかもしれない。昔の日本やエジプトの壁画なんかもそうだけど、写真を1回も見たことのない人が絵を描くと、遠近法が存在していなくて、物も人間も並列してる。それが遠近法が生まれたことで、主体と客体が固定されて、自分が常に主体で、自分の身体は、見られるか見るかのどちらかになって、第三者視点がなくなって……

もしかして江戸時代くらいのころは、自分も牧場のなかの百人のうちの一人、くらいの意識だったのかも。人が死ぬっていうことは、絵巻物のなかのひとりが消える、くらいの感覚で、自分が死ぬことも、主体がなくなるというより、社会のなかのピースがひとつ消える、いまの人に比べればそれくらいの感覚だったんじゃないか──みたいなことを、最近は考えていますね。


亀井さんとは、このあとも人権の話や昨今の政治情勢の話が続いた。亀井さんはとてもおもしろい人なので、気になる人は、直接お話を聞いてみてください。


ヴァイオリニスト

亀井庸州

2000年ごろから主に同世代の作品初演を中心に活動を開始。2005年よりベルギー王立リエージュ音楽院において、欧州の20世紀音楽や即興演奏を学んだ。2007年より帰国後も引き続き同世代の作品初演活動に携わる。個人企画のほか、東京オペラシティ音楽財団、サントリー芸術財団、みなとみらいホール等の主催公演に出演し、内外の作曲家による室内楽、ソロ作品の初演、再演を中心として活動している。これまでに初演した作品は100曲あまり。また同時に尺八の古典をはじめとした演奏を行なっており、2017年にはcoba氏の新曲を、舘野泉氏とともに初演している。弦楽四重奏として出演した公演において第14回、第18回佐治敬三賞を受賞。

このインタビューは、『アイム・ミート!東京公演』パフォーマンス制作のためのリサーチとして行われたものです。