Ayako KATO | violinisthttps://ayako-kato.comヴァイオリニスト・加藤綾子Tue, 07 Jul 2026 23:11:05 +0000jahourly1https://ayako-kato.com/wp-content/uploads/2020/04/cropped-logopress-32x32.pngAyako KATO | violinisthttps://ayako-kato.com3232 【劇評】『アイム・ミート!東京公演』大きなお肉と、加藤の語りと、34歳ジャグラーの期待|青木直哉https://ayako-kato.com/review-immeat-aokinaoya/Wed, 24 Jun 2026 11:00:00 +0000https://ayako-kato.com/?p=22140

青木直哉による〈アイム・ミート!東京公演〉劇評。]]>

評者:青木 直哉

「肉をさ、ヴァイオリニストにしていくんだよ」と、一言でこの作品を説明してみた。友人に。

当たり前なんだけど、全然伝わらなかった。

そうですよね。肉がヴァイオリニストになるわけがない。演者の60分にわたる必死の働きかけによって、生肉がクライマックスで急に立ち上がり、『情熱大陸』を弾き出すわけではない。いや、それはそれで観てみたいけど、そういうことじゃない。確かに使われているのは大きいブロック肉で、薄切りロースよりは立ち上がりやすい。でも肉塊は、ヴァイオリンの弓を持てない。

じゃあ、どういうことか。

生肉はたしかに使われる。だが、それは演者の「肉体」のメタファーとして机に横たわり、言葉を書いた紙がブッ刺されていくのである。

©︎Junnosuke Nishi

観客の正面にプロジェクターで堂々と映し出されるのは、肉のかたまり。

加藤は、実際にはまな板の上にあるその肉に、まずティアラを載せる。すると大画面上に、ちょっとお茶目なお肉が爆誕する。そして、これからこの肉をヴァイオリニストに育てていきます、と宣言する。

加藤は、小さなふせんを手に取る。そこには「メンデルスゾーン」とか「女の子には音楽をやらせてあげたい」とか「きれいな背中」とか、いろいろと書いてある。そしてそれを、まち針で肉のかたまりに一枚一枚刺していく。観客はその様子をクロースアップで見ながら、加藤の半生に関する話(レクチャー)を聞く。

これがこの作品の大枠である。

加藤はヴァイオリニストだ。幼少期からヴァイオリンを弾いている。Webサイトのバイオグラフィには「クラシック音楽やヴァイオリンを、女子のたしなみとして始め」たことで「ヴァイオリニストという振る舞いは、文字通りわたしの身体の一部となりました」とある。

つまりだ。ふせんだらけの肉と同じように、加藤もヴァイオリニストとしての振る舞いを身体のいたるところにピンで刺されており、引き剥がせないでいる人間なのだ。プロジェクターでドーンと観客の前に映っている肉塊は、加藤だ。

この説明だとかなりセンセーショナルな作品に聞こえるが、実際のところ、グロテスクだ、危険だ、と感じる部分はあまりない。ヒステリックな雰囲気を装って、不快感を引力に変えようとする作品でもない。演技中、加藤は常にフラット、むしろややコミカルだ。肉というメディアがちょうどよかったので、今日はこれでやっていきます、というような、算数の先生がデカい三角定規を使うような雰囲気で肉を使う。ふせんの色もポップだし。

©︎Junnosuke Nishi

加藤は言葉を刺す際に、観客にそれを復唱させる。この「復唱」により、観客は言葉を見るだけではなく、「聴く」ことにもなる。加藤のことばによれば、これは音楽家が演奏時に持つ感覚とも重ね合わせられている。音楽を鳴らしているとき、音楽家がやっていることは「聴く」ことだ、と。

加藤の演奏時の感覚、成長する過程でかけられてきた言葉、それを自らの頭で反芻してきた経験、さまざまなファクターが織り込まれた「復唱」だ。

そして「観客が肉にかける言葉」という構図は、「社会がヴァイオリニストにかける言葉」という比喩を強調していく。

言葉のつみかさねで伝わってくる加藤の葛藤の軌跡は、とても興味深かった。大変な業界だなぁ、と思う。

ヴァイオリニストは、作品を奏でる際に「作曲家の精神を背負」わなければいけないそうだ。女子がヴァイオリンを演奏するにあたっては「綺麗な背中を見せて、優雅に歩き、美しく自然な微笑みをたたえ、普段の自分とは別人となること」が求められる。

うーむ、重いぜ。自分の感性で完全フリースタイルでやるわけにはいかないんだな。それぞれの身体や態度の個性を、音楽が広く柔軟に受け止めてくれるのではない。音楽のために、身体や態度を変革することが強く求められるわけだ。

僕はクラシック音楽に関して門外漢である。よく知っているパフォーマンスの世界は、ジャグリング。そう、僕はジャグラーなのだ。

ジャグリングの世界には、別にこれといった規範もないし、こうあるべき、という圧力もない。そもそもそれを語ってくるような先生、つまり明瞭な「上の存在」がいない。YouTubeを見て、自分の部屋で勝手に練習して上手くなっただけだ。自由のかたまりみたいなものである。そういう視点から見ると、加藤が浴びてきた業界における要請は、非常に窮屈に聞こえる。

クラシック界内部の特徴について、丁寧な語りを聞く機会を得られる、という点はこの作品の大事なポイントである。レクチャーとしての機能が、しっかりとある。音楽の文脈ではなく、舞台芸術の場に置かれる形式で、音楽をやる側の人生の、深部についての思考を、部外者に向けて発表している。聞く側にとっては新鮮である。そして、このような存在がクラシック音楽の世界では稀有であることも、同じ回で鑑賞していた音楽家の友人から聞いた。

©︎Junnosuke Nishi

加藤は言葉だけではなく、自分の身体も批判の道具として提示する。喋りながら不自然なポーズでシャツを半脱ぎして背中を見せたり、ケースに入れた弓をバットのように振ってみせたり。ジェンダー、伝統、たくさんの規範を求められてきた自らの音楽人生が作ってきた身体の、「そうじゃない方」を見せる。加藤は、ただのレクチャーとは違うものとして、生身で語り、見せる現場でこその工夫を重ねる。

僕は一人のパフォーマーとして、ここを特に議論したい。

加藤はこの作品で、「自分のことば」でパフォーマンスを行うこと(行なっているように見えること)をモチーフの一つにしている。それはWebサイトの本公演ページ、MESSAGEの項を読むとわかる。

「わたしはなぜ、これまで、わたし自身のことばで語ろうとしなかったのか?」

これを課題として、この作品が出発していることを述べているのだ。

その発露として、たとえば加藤は知り合いと話すようなフランクな口調で喋る。時には「〜〜でさぁ、〜〜じゃん」など、親友と喋っているくらいの口調で話をする。これは、充分にありうる選択肢で、効果的な場面もあった。

しかしここには、彼女なりの気恥ずかしさも見てとれた。そしてそれがノイズとして機能することがあった。話しながらずいぶんフラフラしているときは、よう、しっかり立ってくれ! と思う瞬間もあった。加藤は演技後、アーティスト・Aokid氏とのトークショーで、脱力しようとするとどうしても動いてしまう、と語っていた。それが自然な振る舞いであると。僕は、それが、レクチャーとしての効力を減ずる方に働いている時があると感じた。

この稀有な作品で、さらにブラッシュアップした部分を見たいとすれば、加藤の「語りへの引き込み」についての探究だ。言葉が大事な作品だからこそ、である。これまでにヴァイオリニストとして使い込んできた身体のOS(オペレーティング・システム)とは異なるOSを、「素の自分」で間に合わせるのではなくて、試行錯誤で自らの力で作り上げていく。容易ではないが、その難しさに立ち向かうことも、この作品の射程にあるだろう。加藤の持つ優れたユーモア感覚を、さらに的確に増幅させる振る舞いが、きっとまだある。

でもこんなことを言いつつも、加藤は十分にそれを理解しており、これからどんどんその点も磨き上げていくのだろうとも思う。観客からどう見えているのか、第三者と互いに信頼できる環境で、忌憚なく意見を聞き、トライ&エラーを繰り返して、少しずつテクニカルに追求していくことができる演者だ、という期待がある。こうして、文章をあまり関わりない僕のような人に頼んでいることひとつとってもそう思うし、彼女の文章を読んでいてもわかるし、なんせ「肉をヴァイオリニストにしよう」という着想を60分の作品に仕上げられる人なのだ。

©︎Junnosuke Nishi

そう、僕が高く評価したいのは、加藤の批評精神なのである。パフォーマンスそのものに限らず、加藤は本パフォーマンスの東京公演Webサイトに、「演奏家の振る舞いと身体をめぐるインタビュー」として、自身で取材・編集をした音楽家との対話を載せている。この記事がべらぼうに面白いのだ。

インタビューのセンスには、その編者の批評眼がもろに出る。話し手の選定から、質問の角度、文章の切り取り方まで。そこにおいて、加藤はとても高い能力を発揮している。

加藤は根っからの「言葉の人」なんじゃないか、と思う。言語で大いに思考していることがあり、まずはそちらがいつも先に出るのだろうと睨んでいる。だから、身体の振る舞いはどちらかというと後からついてくる。それが加藤なりの順序なのかもしれない。僕も自分でジャグリングの雑誌を作っていたことがあって、随分と言葉で考えてきたので、なんとなく通じるものを感じる。まぁ、ベクトルはだいぶ違うかもしれないけれど。

そんな加藤を、僕はこれからも大いに応援したい。彼女に驚かされたいし、僕も驚かしたい。ジャンルは違えど同じパフォーマーとして、注目している。


青木 直哉(あおき なおや)

1991年横浜生まれのジャグラー通訳者。2006年より独学でジャグリングを習得。大学在学時に、批評家の故・加藤典洋氏の指導のもと、米国のジャグラージェイ・ギリガンに関する論文を執筆。その経験から「書くジャグリングの雑誌: PONTE」を立ち上げ、2014年〜2019年まで紙雑誌を発行。ジャグリングとことばを通して世界を見聞し、人と繋がることが生きがいであり、世界のサーカスフェスティバル行脚を経て、現在はサーカス、ダンスをはじめとしたパフォーミングアーツシーンにおける通訳・翻訳を生業としている。2020年からは、横浜の本屋・生活綴方を拠点としてZINEやフリーペーパーの形式で、文章や漫画を発表中。
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【劇評】『アイム・ミート!東京公演』 「女の子には音楽をやらせてあげたい」をめぐる問いかけ|かげはら史帆https://ayako-kato.com/review-immeat-kageharashio/Wed, 24 Jun 2026 11:00:00 +0000https://ayako-kato.com/?p=22027

かげはら史帆による〈アイム・ミート!東京公演〉劇評。]]>

評者:かげはら史帆

子どもに何かを習わせるとは、その子の身体に歪みを与えることだ。そんな言葉を、10年くらい前にどこかのSNSで見かけ、強烈に記憶に残った。芸やスポーツの型を習熟するとは、まっさらな子どもの肉体を不可逆的に変形させてしまうことに他ならない。もちろんほとんどの親は、そんな懸念など抱きもせずにわが子をお稽古ごとに通わせ、指示されるがまま必要な道具を与える。ピアノとか、ヴァイオリンとか、トウシューズとか、野球バットとか。そして多くの子どもは、実際に身体が変形するよりもはるか前にそれらの道具に飽き、離脱していく。私を含め、世の大半の大人は、歪む努力を怠った肉の持ち主だ。だから私たちが「楽器のお稽古」という言葉から想像するのは、おもちゃのように小さくて可愛い子ども用ヴァイオリンや、発表会でまとうピンク色のドレスや、それらを与える程度のささやかな余裕がある家庭といった、微温的で健全なイメージにすぎない。

加藤綾子は、ヴァイオリンのために変形させられた身体の持ち主であり、その特異性に人生のどこかで気づいてしまった人である。本公演『アイム・ミート!東京公演』は、そんな加藤の自叙伝とも呼びうるレクチャー・パフォーマンスだ。黒のタンクトップに、白のオーバーサイズのTシャツに、ジャージに、スニーカー。どこにでもいるスポーツジム通いの女性のような──つまりはこれから人前でパフォーマンスをするヴァイオリニストらしからぬいでたちで、加藤は来場者を迎え入れる。そして「これからお肉をヴァイオリニストに育てていきます」という宣言のもと、どこのスーパーマーケットにも売っている豚ロース肉のかたまりをわが身に見立て、ヴァイオリニストの象徴たる王冠をかぶせ、さまざまな文言を書いた付箋を貼りつけていく。「せっかくだから、女の子には音楽をやらせてあげたい」「カール・フレッシュ」「作曲家の精神を背負う」「音楽に身を任せる」「きれいな背中」「優雅に歩く」──観客は加藤の指導のもと、それらのメッセージを復唱し、お肉をヴァイオリニストに育てるいとなみに加担していく。

©︎Junnosuke Nishi

「女の子には音楽をやらせてあげたい」──きわめて平凡な、しかし多くの欺瞞に満ちたフレーズだ。なぜ「女の子」だからなのか? なぜ「音楽」が意味するものが西洋発祥の古典楽器なのか? 加藤はその問いのヒントとして、「音楽取調掛」や「鹿鳴館」という言葉を一瞬ばかり放つ。明治期に日本の高位の人びとが西洋から輸入したのは、音楽作品や楽器の演奏技術ばかりではない。彼らが自国に取り入れようとしたのは、富であり、階級であり、社会のいびつさであり、知識人の高慢さであり、ジェンダー差別である。第二次世界大戦後、日本が高度経済成長期を迎えると、西洋音楽はさらに爆発的に社会に浸透していく。「愛娘が音楽を奏でるリビングルーム」という、19世紀のヨーロッパの市民家庭において幸福の象徴とされた空間が、20世紀後半においては日本の郊外の3DKの団地に召喚され、スズキ・メソードやヤマハの教室が街にあふれ、ピアノが年間30万台売れる。だがクラシック音楽が「平等」であることを証明するかのようなそのユートピアは、つかの間の国力に乗じて現れた幻影でしかなかった。

1993年生まれの加藤は、そうしたユートピアの残照のなかに生を受け、ヴァイオリンのお稽古に通った世代である。J.S. バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータが書かれてから加藤の手にたどり着くまでの300年を振り返ると、うち100年以上は日本国内の歴史だ。アジア諸国はクラシック音楽の先進国であるといわれてすでに久しい。たしかにオーケストラの演奏水準は上がり、国際コンクールでは欧米を含む世界各国のアーティストと肩を並べる実力を発揮する。だがその輝かしい戦績は、日本に生まれた人が何百年も前の西洋の楽曲を弾くのはなぜか、という加藤の問いと葛藤を無効化するものでは決してない。加藤が自身の肉を介して見つめているのは、クラシック音楽やそれを奏でる人びとの栄華の歴史ではなく、その暗部だからである。

ジェンダーについても同じことがいえる。いうまでもなく現代においては、プロフェッショナルの女性クラシック・アーティストが大勢いる。だがその事実は加藤のジレンマを即座に解消するものではない。ユートピアが瓦解したいまでもなお、「女の子には音楽をやらせてあげたい」と夢見る親は大勢いるだろう。なぜ「女の子」だからなのか? なぜ「音楽」が意味するものが西洋発祥の古典楽器なのか? ──そんな疑問などもたないまま。そしてほとんどの女の子は、人生の中途で楽器を持つのをやめ、特にクラシック音楽の愛好家になるわけでもなく、音符を忘れ、奏法を忘れ、自分が普通の肉として生き残れたことを自覚するでもなく、残りの長い人生を生きる。逆説的な言い方になるが、人生の初期に多くの女性が与えられたピアノやヴァイオリンは、身体を歪ませないための予防接種としての役割を果たしている。音感を養ってほしい。豊かな感性を育んでほしい。いい姿勢や上品なしぐさを身につけてほしい。市民社会が幕を開けた数百年前から多くの人びとが楽器に託してきた夢は、「でも“それ以上”になってもらっては困る」という留保付きである。

©︎Junnosuke Nishi

アフタートークの場で、笙奏者・カニササレアヤコからヴァイオリン演奏について問われた加藤は、「いまさらやめられないだけ」「楽しくはない」という想いを漏らした。だが不思議なことに、その様子に悲壮感はない。公演中の加藤は終始、自然体で、飄々としていて、言葉とはうらはらに楽しそうでさえある。人生の過程で大きな「問い」を手に入れた者ならではの強さがそこにある。付箋を貼られ、ピンを刺され、弓にギコギコ押しつぶされ、ヴァイオリンの形に変形させられた豚ロース肉は、つねにスクリーンで観客の眼前に投影され、死体の写真を見せつけられるような気まずさを与える。だが実際には、スクリーンの前には肉と同期した存在たる加藤がおり、生きて語り、飛び跳ね、顔をゆがませ、笑っている。その存在じたいが観客にとっては痛快であり、また救いである。 公演のなかで、加藤は観客に次々と問いをぶつけていくが、明確な答えを提示するわけではない(もちろん「それでも音楽はやっぱり素晴らしい」なんてことは死んでも言わない。きわめて信用できる)。

答えを言わない作品は果たして「レクチャー」なのだろうか、と疑問に思う人もいるかもしれない。だが本作における加藤は、あるいは豚ロース肉の塊は、多くを言葉には出さずとも、魂の奥底では中指を立ててFUCKと叫んでいる。終盤において加藤は、Tシャツを脱いだ黒いタンクトップ越しの背中を悠々と広げてJ.S. バッハの無伴奏パルティータを弾きはじめる。公演本編において加藤のヴァイオリン演奏を聴ける唯一のシーンであり、加藤が即興演奏に長けたアーティストであることを思い出させる自由で無軌道な変奏が繰り広げられる。観客のほとんどは、そのさまを仰ぎながら同じ問いを胸に抱いただろう。果たして目の前にあるこれを「きれいな背中」と思ってしまうことは許されるのだろうか? と。会場のSCOOLを出て三鷹駅へ向かう中央通りを歩きながら、多くの人たちは、変形させられた豚ロース肉のみならず、自分自身の肉についても考えを巡らせたに違いない。ヴァイオリニストとして育てられたお肉に物語があるのと同様に、ヴァイオリニストにならなかったわが肉にも、わが肉の物語があるからである。

©︎Junnosuke Nishi

かげはら 史帆(かげはら しほ)

文筆家。東京郊外生まれ。法政大学文学部日本文学科文芸コース卒。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。

著書『ピアニストは「ファンサ」の原点か – スターとファンの誕生史』(ノンフィクション/河出新書)、『ニジンスキーは銀橋で踊らない』(小説/河出書房新社)、『ベートーヴェンの愛弟子 – フェルディナント・リースの数奇なる運命』(評伝/春秋社)、『ベートーヴェン捏造 – 名プロデューサーは嘘をつく』(ノンフィクション/柏書房、河出文庫)。ほか音楽雑誌、文芸誌、イベントプログラム、ウェブメディアに小説、エッセイ、書評、インタビューなどを寄稿。同人活動、Podcast配信も。

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【NEWS】Selected for the “Shihai Associate” mentoring program|演劇批評誌『紙背』による伴走プログラム「紙背アソシエイト」に採択されましたhttps://ayako-kato.com/news-shihaiassociate/Sun, 07 Jun 2026 02:10:46 +0000https://ayako-kato.com/?p=21978

演劇批評誌『紙背』による伴走プログラム「紙背アソシエイト」に採択していただきました。加藤綾子の活動に継続的に伴走していただき、”作品制作のプロセスと批評的応答を”点”ではなく”線”で記録”していただく企画です。 プレッシ ... ]]>

演劇批評誌『紙背』による伴走プログラム「紙背アソシエイト」に採択していただきました。加藤綾子の活動に継続的に伴走していただき、”作品制作のプロセスと批評的応答を”点”ではなく”線”で記録”していただく企画です。

プレッシャーがないといえば嘘になりますが、いま、足元がぐらつき、どこに向かえばよいのかわからない情勢のなか、わたしとわたしを作ってきた人々の存在がことばになっていくことを、ありがたく思います。

なぜヴァイオリニストなのか、「クラシック音楽的」とはなんなのか、当事者であるわたしではない、第三者の書き手にどのように捉えていただけるのか、恐ろしくもあり、エキサイティングでもあります。

最後に、紙背の採択結果ページのテキストの一部を引用させていただきます。

“(略)…これほどまでに批評が必要とされているのであれば、もっと多くの批評家がいて、もっと多くの批評の場があってもいいはずです。しかし現実はそうなってはいない。それはなぜでしょうか。皆さんが本当に批評が必要だと考えているのであれば、この問題についても私たちと一緒に考えていただければと思います。”

プログラムの詳細や審査概要については下記の「紙背」WEBサイトをご覧ください。

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【NEWS】Selected for the “ACY Fellowship” mentoring program|2026-2027年度ACYアーティスト・フェローシップとして活動しますhttps://ayako-kato.com/news-acyfellowship26/Thu, 14 May 2026 06:57:00 +0000https://ayako-kato.com/?p=22045

2026-2027年度ACYアーティスト・フェローシップとして活動・制作します! 2年間という長期スパンで、作品を作ります。横浜での短期滞在や交流、そして制作! とてもたのしみです。 プログラムの詳細や審査概要については ... ]]>

2026-2027年度ACYアーティスト・フェローシップとして活動・制作します!

2年間という長期スパンで、作品を作ります。横浜での短期滞在や交流、そして制作! とてもたのしみです。

プログラムの詳細や審査概要については下記をご覧ください。

2026-2027年度 つながる創造:ACYアーティスト・フェローシップ助成

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演奏家の振る舞いと身体をめぐるインタビュー③北澤華蓮さんhttps://ayako-kato.com/interview-karenkitazawa/Wed, 13 May 2026 11:03:00 +0000https://ayako-kato.com/?p=21904

ヴァイオリニストの北澤華蓮(きたざわ かれん)さんは、Tシャツとジーンズとスニーカー姿で現れ、みずから「こんな、ヴァイオリニストっぽくない格好で」とはにかんでいた。Tシャツとジーンズとスニーカーは、なんでヴァイオリニスト ... ]]>

ヴァイオリニストの北澤華蓮(きたざわ かれん)さんは、Tシャツとジーンズとスニーカー姿で現れ、みずから「こんな、ヴァイオリニストっぽくない格好で」とはにかんでいた。Tシャツとジーンズとスニーカーは、なんでヴァイオリニストっぽくないんだろう? 気になったので、まずそこからお話することにした。

“ヴァイオリニストっぽくない”格好

加藤:きょうの格好が“ヴァイオリニストっぽくない”のはなぜですか?

北澤:ジーパンですね。昔、レッスンでこういうジーンズを履いて、先生にやんわり指摘されたことがあって。ちょうどわたしの前にレッスンを受けていた女の子が、4、5歳くらいの、ピンクのフリフリのワンピースだったから、余計に記憶に残っていて、それ以降、なんとなく「レッスンでジーンズははいちゃいけない」と思うようになりました。

加藤:これまで何人かに取材をしてきて、服装やマナーについてよく言われたという人もいれば、そうじゃない人もいるんですよね。北澤さんは、言われてきたほうということですか?

北澤:めっちゃ言われてきました。先生にも親にも。言葉遣いとか……わたしは普段、“汚い”とか“男っぽい”言葉遣いで、それがぽろっと先生の前で出ちゃうから、レッスンが終わった後、親に叱られたり。先生に送るメールも、親にぜんぶチェックされて。

加藤:え、先生にメール? 小学生で?

北澤:そう。先生が遠方だったので、毎日「練習しました」ってメールを送ってたんです。それで、先生に応援されたり褒められるのが嬉しくて。

加藤:レッスン室のこと、覚えてます? 北澤さんが先生だとして、わたしが生徒だとしたら、立ち位置はこんなかんじでした?

北澤:譜面台がこのへんで、先生がここにすわって……だから、目は譜面をみてるけど、必ず先生の顔が目に入って。もう、意識しかしてませんでした(笑)

加藤:自分がレッスンする側になって、「あ、いま、自分の先生の影響受けてるな」とおもうことはありますか?

北澤:ことばのたとえとか。これまで習ってきた先生のことが、混ざってますね。

加藤:演奏では?

北澤:どうだろう。細かい演奏法より、息の吸い方とか、エンターテインメント的な見せ方かな。とてもカリスマ性のある先生についてた時期があったから、その影響は強いかも。楽しげに、体が動いて、見せたり、合図するための息をするというか。自分の内面は別として、華やかに楽しげに見せる身体は、影響を受けてるのかも。

ナイーブな緊張

加藤:じゃあ、演奏中の内面はどうですか? 今と昔、それぞれについて教えてもらえたら。

北澤:まず、今についていうと、音楽ホールや段差のある舞台じゃなくて、ちいさな、フラットなお店で演奏させてもらうことが多いので、だからもう、そんなにナイーブな緊張はしない。そこに人が集まって、これからわたしの演奏を聴こうとしてくれていることへの、嬉しさとか、わくわくからくる緊張はあるけれど、ネガティブではない。

でも、昔はもっとナイーブで、ネガティブな緊張だった。あれがなんだったのか、いまだに、わたしのなかで完全に分解はできていないけれど……

加藤:昔というと、大学生くらい?

北澤:そうですね。大学卒業くらいまでか、卒業して1年ぐらいは続いてたかもしれない。

加藤:やっぱり試験でジャッジされるとか、そういうことも影響してましたか?

北澤:それももちろんあるけれど、なにより、なんだろう、自分の積み重ねだとおもうんですけど……人前に立って良い演奏ができる状態を、そもそもあまり想像できなかった。舞台に行く前も、その舞台上で演奏してる最中も、常に、自分が自分を失敗させようとしてくる、みたいな。なんていうんだろう、追いかけっこじゃないけど、いちばん自分が応援してあげてほしいのに、だれよりも自分のことを失敗させようとする自分と、常に戦ってる──みたいなのがあって。

わたしは、それを「緊張」って呼ぶと思ってたんですけど……大学終わり頃になって、ようやく人に「舞台で演奏してるときってどんなかんじ?」って質問できるようになったんです。そしたらぜんぜん違う答えが返ってきて、びっくりした記憶がある。

加藤:たとえばどんな答えだったんですか?

北澤:ふつうに、「とにかくもう、その音しか考えてないよ」みたいな。「次の小節は、はい、はい、はい」って出てくるみたいで。わたし、もっと戦ってたんだけど、みんな違ったんだ! コンクールとか、わたしだけ違う土俵で戦ってたんだって。舞台慣れしてないからだとおもってたけど、そうじゃなかった。もっとべつの問題に向き合わないといけなかったってことに気がついて、もう大学終わるっていうのに、衝撃(笑)

加藤:「自分で自分を失敗させるような感じ」というのは、たとえば「ここ、失敗しちゃうかも」って自分で思ってしまう、みたいな?

北澤:それもある。失敗するかもって思ったときに、正しいフレーズがわかってるのに、「そこ、こけてみる?」みたいな(笑) 自分をひっかけようとしてくる自分が、出てくる。でも、それを考えられてるってことは、次のフレーズがもう頭のなかで出てきてるんですよね、いま弾いてることじゃなくて。だから、どこかに冷静な自分がいるんだけど、その冷静さが絡まって、意地悪しようとしてくる。

加藤:身体の反応としては、なにかありますか? 冷え性の人は本番前に冷えちゃうとか、汗が出ちゃうとかありますけど。

北澤:冷え性だったので、いつも一生懸命、手をあっためてました。とくに冬は、受験シーズンって、めっちゃ冷えるじゃないですか。友達に、トイレのあと手を洗うと冷えるから嫌で、ウェットティッシュでアルコール消毒してる子がいて……

加藤:ああー。それは気持ちわかるなあ。

北澤:ほんとに、お湯が出なかったら終わり。だから、とにかくホッカイロ持ってるしかない。

本番前のルーティン

加藤:さっきの話に少し戻るけれど、本番直前、自分がそういうナイーブな緊張状態になるとして、すこしでもそれに抗うためにやっていたルーティンとか、ワークってありますか?

北澤:めっちゃある、とおもう。いまはもうやってないからあれだけど……ふつうに、準備体操みたいな。ラジオ体操ですかね。まず楽器を置いて、ふつうの体操みたいなのを何回もやって。ほかの受験生とかを近寄らせない効果もある(笑)

加藤:それをやるのは、コンクールとかオーディションってことですか?

北澤:それ以外の舞台でもやることはありました。あ、ドレスでもこれはできるんです。

スライドで画像表示

加藤:わたしもよくやります。なつかしい(笑)

北澤:身体を柔らかくしてましたね。

加藤:なるほど。あと、お辞儀してるときは何を考えてますか?

北澤:なんか……見て。見てる。ってかんじでした(笑) 親にお辞儀を注意されたことが多すぎて。舞台上でお辞儀が短いとか、ぜんぜん客席見てないとか。だからもう、そこから気をつけなきゃって心配して……歩き方も汚いとか。

加藤:(笑) じゃあ、きれいな歩き方ってなんなんでしょうね?

北澤:なんか、わたしはたぶん、姿勢なんでしょうね。姿勢がそもそも、普段からちょっと猫背で。ドレス着てるのに猫背はおかしい、とか。あとは歩幅なのかな。でも、なんか、顔……

加藤:顔?

北澤:「むすっとしてた顔で出てこないで」って、もう、そんなん言われたら注意することが多すぎて、「わたし、弾くだけで精一杯なんですけど!」みたいな気持ちではありました。でも、ある先輩が、ドレスをきれいにばさばさってしながら歩いてきて、すごくニコニコして顔を客席に向けて……「こうやるのか!」っておもいました(笑)

加藤:じゃあ、いまは、そういうことをしなくてもよくなった?

北澤:そうです。ということになったんです。そういうことにしました。そういうことでいいところでしか、弾かなくなりました。

いかに自然体で、ふだん家で弾く時みたいにみんなの前で弾けるか、その状態にどうやって自分を持っていくかが大事だって、現時点では自分で結論を出して。そこに向かってやるようにしてます。演奏する場所がホールじゃない、っていうのもあるかもしれないですけど、ほんとうは、ホールでも、ある程度は同じだとおもうんです。

やっぱりわたしにとって、昔がいちばんしんどかったなって。ただでさえ緊張する舞台で、ふだん着なくて、あえて緊張させるような服を着て、非日常的な舞台に上がって、ハンデを持って演奏する。それは、「いつもより上手く弾けなくて当たり前じゃん」っておもってたので。だから、気づいた時から、その逆をやってみている。自分のほんとうにいい演奏を、人前でできるようにするには何がいいかって考えたら、そこにたどりついたんです。

許されること

加藤:いわゆるクラシックでも、その態度は使えるようになってきている?

北澤:そうですね。どこからどこまでがクラシックなのか、難しいんですけど……たとえば、室内楽なんかは、ちょっと違うお作法だとはおもうけれど、マインドの面では使える。身体的な拘束の部分では違うから、難しい。

加藤:室内楽のお作法、というのは、具体的には?

北澤:まず、人数が3人以上、4人とか5人とかじゃないですか。しかも、座るじゃないですか。座ると、ちょっと難しくて。正しい重心の置き方とか、まだわからないし、ふだん、立っているときは足から緊張を逃してることが多いけど、それができない。

加藤:かれんさんが座って弾いてるときって、どんな感じでしたっけ。

北澤:カルテットで弾いている動画を見返したんですけど、1stヴァイオリンなのをいいことに、結構動いてるし、足がすごく開いてて、「どうした!?」みたいな。普通は、あんなに足を広げないです。

加藤:実際、演奏中は足からなにかを逃がそうとはしますよね。下半身がフリーなほうが、全体的にプラスになるというか。オーケストラのトップ奏者同士の五重奏を見たんですが、かなり自由に動いていたり、お尻が椅子からどんどん浮いたり……それはそれで振付みたいで。おなじオーケストラでも、席次の前か後ろかで、身体がどんどん変わっていきそうですよね。

北澤:後ろの方だとだんだん、そういうフリーな体の使い方を忘れちゃうのかも。なんというか、“許される”立場じゃないと、こういう動きはできない、とおもってしまう。わたしも普段、1人とか2人とかで演奏するときは許される立場だから、そうなる。

加藤:“許される”。

北澤:そう。そもそも、誰が何を許すのかは、よくわからないんですけど……

過去の自分に対して

加藤:かれんさんはいま、いわゆるクラシック音楽的な制度とちょうどいい距離を保っているのかな、と、わたしは勝手に思っているんですけど──ネガティブな意味じゃなくて。いま、その構造のなかに身を置いていないという意味で、かつての自分に対してことばを投げかけるとしたら、どんなものになりますか?

北澤:難しいですね。……いやあ、難しい。あのときの自分になんて声をかけても、自分自身で気付かないことには、なにも変わらない気がするから、なんて声をかけていいのかわからないんだけど。

でも、「もうちょい自分のこと信じていいよ」って。自分が違和感を持ったことに、片っ端からふたをして、なんとかそこで生きようとするから苦しかっただろうし、「みんながそう言っているから、それが正解なんだ」と信じないと、そこにはいられなかったんだけど……だから、そんなに、怖がらなくてもいいよって。

我々、とくにヴァイオリンだから、4, 5歳、早ければ3歳くらいから、楽器をやってるじゃないですか。だから、自我を持つ前に、常識として体内に埋め込まれてる。外から見たら、付属品みたいに思うかもしれないけど、我々からすると、もう5, 6歳になったときには、身体に焼印が押されてるくらい、埋め込まれてる。自分で取ろうとして取れるものではない。

だから、そうなんですよ、疑うということは、自分のなかにある価値観も疑うことになるから、それはものすごく苦しい作業であって。わたしなんか、もう自我に若干組み込まれてる。そうなんですよ。難しいですよね、気づくのが。

加藤:いまさら、分かつことはできない。

北澤:本当にそうなんですよ。そうなんですよね。このさき仕事として成り立たなくなったとしても、ヴァイオリンを弾かないと、あんまり生きていける気がしない。

日常の動作

加藤:普段、日常や生活の中で、「これ、この動きってふつうの人はやらないよなあ」「ヴァイオリニストだからやっちゃうんじゃないか」みたいな動作って、あります?

北澤:動きはわからないけど、考え方はすごく影響する。最近、ちょっと運動する場所に通ってみたんですけど、背中を伸ばすときに「あ、この感覚は弾く時に使えそう」とか、なんでも演奏に繋げちゃう(笑) 「あ、こんなのしたことなかった」「ここの筋肉とか骨とか意識したことがなかったな」とおもったときに、「じゃあヴァイオリンこれで弾いたらいいんじゃね?」ってつなげちゃう。

わたしはずっと、骨盤とか大腿筋とかが伸びてる感覚を意識できなかったけど、ヴァイオリンとは別の運動を学んだときに、逆に自分の身体の成り立ちを知る。もう、病気だなっていう。職業病。

ヴァイオリンのために、たくさん習い事とか部活とかの選択肢を諦めてきたけど、そっちをやってたほうが、早く辿り着いたこともあるんじゃないか。五嶋龍だって空手やってるし。身体の使い方とか、ここにこういう動きができるとか、自分の身体を理解して演奏に生かせるから、そういうことをしなかったのが惜しまれます。

楽器の構え方問題

加藤:演奏家として、「女性らしく」とか、性別に関わることを言われたりしましたか?

北澤:言われてきた、とおもいます。言われたときは理解していなくても、いま振り返ると、そうだったなって……やっぱり、衣装と振る舞いですかね、おもに。ドレスというものを着用することがマナーになってて、それをみている人が逸脱しているとおもう動きは、駄目とされる。

加藤:逸脱している動きというと、たとえば、どういう?

北澤:初歩の初歩でいえば、ドレスで走らないよね、っていう(笑) 中学生くらいになったらヒールも履くようになって。

加藤:わたしも歩き方は言われました。音を立てないように、とか。

北澤:「でも無理じゃね?」って(笑)

加藤:無理ですよね(笑)

北澤:転んじゃいけないのに音を立てないのは、マジで無理です! パニエをつけてゆっくりあるけば大丈夫ですけど、舞台のお辞儀するところまでいくのに、そんなに時間をかけるのもなって。あと、楽器の構え方問題ありませんか?

加藤:構え方?

北澤:小さい子が、こうやって楽器を構えるんです。左手で持った楽器を右手で挟んで、お辞儀する。わたしはこれ、ある流派のお子さんでよく見るフォームだとおもってたんですけど。

左手でヴァイオリンのネックを持ち、右の腋にヴァイオリン本体を抱え込むかたち

加藤:そうなんだ! わたしはあんまり見たことなかったかも。

北澤:小学校低学年のコンクールなんかで、たまに見ます。それがだんだん、高学年とかになってくると、こう……「楽器と弓並べ型」になる。これは男女にあまり差はない。でも女子は、こんどは「楽器に右手を添える型」が出てくる。珍しいパターンだと「アンネ=ゾフィー・ムター型」って呼んでるタイプがあって、楽器のうずまきと弓を、片手で持ってる……

加藤:アンネ=ゾフィー・ムター型(笑)

北澤:わたしも、楽器を大事そうに持つのはやってたけど、それは楽器そのものより、楽器をそうやって持っている自分を見せるためというか……これって、ドレスを着ていないとあんまりやらないなあと。

「楽器と弓並べ型」の再現。北澤さんが「アンネ=ゾフィー・ムター型」と呼んでいた持ち方は、実際のところ、ムターが発祥かはわからない。

加藤:「構え方問題」と聞いて、わたしは写真のことかとおもいました。

北澤:むしろ、写真から来てる話かもしれない。写真だとこの型*とか、顔を隠して*とか、座ってるときはこうやってここに楽器を乗せて*とか…… *図参照

加藤:なるほど。こういうバリエーションは、ヴァイオリンならではかもしれない。曲線があるし、寄りかかれるし。しかも写真だと、サイズ的にいいところで収まるんですよね。ポートレート的な問題というか。

ポートレートのポーズ例①

ポートレートのポーズ例②

ポートレートのポーズ例③

ポートレートのポーズ例④

ひらかれた密室

加藤:普段、いちばんリラックスしている状態が100だとしたら、いま言ったようなヴァイオリニストっぽい所作とか振る舞いって、どれくらいの数値になる?

北澤:舞台上ですよね……30まで減るかな。逆に言えば、舞台上じゃない、公演後の舞台袖やロビーでお客さんを迎えるあたりとかは、50くらい。あそこまでが仕事。楽器も置いてきて、ニコニコで、「ありがとうございました」ってお姫様みたいに……

加藤:お辞儀して。

北澤:そこまででなにか、一個のお作法みたいなのがある。

加藤:逆に自分が客側だと、演奏者のことを察して身を引くというか。もう疲れてるだろうし、なんなら挨拶しないで帰ろうかなって。

北澤:客側のときも、ちょっとそれをやってしまう。相手もわかってるから、「あはは」って流すみたいな……

加藤:いまの話って、わりと、学生とか若手にありがちなんですかね。マネジメントがあいだに入っていなかったり。それでけっきょく逆転の発想になって、「いま、こういうことをしなきゃいけないのは、自分がそういう実力や身分じゃないから」とおもってしまう。

北澤:そうそうそう。ぜんぜん、そんなことではないんだけどね!  わたしも、あのころはそういうことをしないといけない、そういう道だとおもってました。

加藤:いまでも、ライブ後にお客さんと話したりします?

北澤:ありますよ。でも、いまは舞台と客席がなくてフラットだから、こっちもそんなに、丁重な感じを求められなくて、終わってそのままの態度でいられる。「終わりました」「あざした、あざした〜」みたいな(笑)

加藤:空間って大きいですよね。単純に近いか遠いかでもあるし、高さもあるし、音響も違うし……いちばんは雰囲気ですかね。

北澤:雰囲気だとおもいます。だって、神保町の試聴室でドレスを着るかというと、着ないじゃないですか。やっぱり、その空間が、その振る舞いを許すかどうか。仮に、いわゆる「芸大おじさん」が試聴室にきたとして、演奏家もドレスじゃなくて、でも、弾き終わった後に長時間、演奏者を引き止めてしゃべったり、強引に写真を撮ろうとしていたら、周りが咎めるはず。ホールのロビーという空間が、そういう振る舞いを許してるところもあるんじゃないかと。

加藤:まわりも「まあ、そういう人もいるよね」「仕方ないよね」みたいな。

北澤:演奏者だって、ほんとうは誰かに止めて欲しいわけじゃないですか。でも、誰も止めてくれない。

加藤:ひらかれた密室感があるというか。音楽大学という空間自体が、わりと密室っぽい。

北澤:わたしが大学にいたあいだ、同期でもだれでも、基本的に「全員ライバル」みたいな意識があって。それは大学だけではなく、わたし自身の問題でもあるかもしれないけど……ほんとうは、お互いに教え合えばいいじゃないですか。なんなら情報共有しあえばよかったのに、なかなかそういう対象として、みんなのことを見れなくって。他の楽器の子だったらちょっとは、って感じでしたけど……

でも、本来だったら大学は、教育機関というか研究機関であって、互いに良い情報を共有して切磋琢磨する、そういう健全な仕方があったとおもう。卒業してからのほうが、みんな会えなくなるから、むしろいろいろ共有してる。なんであんなに分け合えなかったんだろう。

加藤:練習室も、独特な雰囲気だしね。練習していても周りの音は聞こえてくるし、気になるし、でも、次の授業やレッスンまでに、すこしでも練習したいし。

北澤:わたしがいた大学は、練習室が少なくて、そもそもちょっとした空き時間に、練習室で練習できていること自体、うらやましかった。「なんであの子が練習してるのに、わたしはいま練習できないんだろう」って。廊下で練習は認められていないから、共有スペースみたいなところで、みんなつめつめに座って、楽譜を膝の上に気持ちばかり広げて、レッスンの録音を聞き返して……さっき自分は猫背だって言いましたけど、それはもう猫背になる。上を向いた記憶が、ないです(笑)


北澤さんは、たぶん、わたしより学校での生活やその記憶が身体に残っている、という印象があった。単純に卒業してからの時間がまだ(わたしに比べれば)経っていないことも関係あるかもしれない。やっぱり、演奏家の振る舞いには、演奏だけではなくて、そこに付随するたくさんの時間と空間──レッスン室、大学、演奏会後のロビー──も含まれているのだろう。


ヴァイオリニスト

北澤華蓮

ヴァイオリニスト。クラシック音楽をルーツにもちながら、即興演奏や多領域のアーティストとの共演を重ね、領域横断的な活動に取り組む。畑・銭湯・無人販売所など日常と地続きの場所で演奏しながら、音・体・場所との関係性を模索している。 コレクティブ「あちらこちら」ユニット「のらノりずむ」のメンバーとしても活動中。

このインタビューは、『アイム・ミート!東京公演』パフォーマンス制作のためのリサーチとして行われたものです。

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演奏家の振る舞いと身体をめぐるインタビュー②亀井庸州さんhttps://ayako-kato.com/interview-kameiyoshu/Wed, 13 May 2026 11:02:17 +0000https://ayako-kato.com/?p=21843

最近、これまで習ってきたことをほとんど「やめ」て、自分で自分なりの演奏法を見つけた、というヴァイオリニストの亀井庸州(かめい ようしゅう)さん。亀井さんは、現代音楽を主に演奏しながら、常に演奏法や歴史のことを学び続けたり ... ]]>

最近、これまで習ってきたことをほとんど「やめ」て、自分で自分なりの演奏法を見つけた、というヴァイオリニストの亀井庸州(かめい ようしゅう)さん。亀井さんは、現代音楽を主に演奏しながら、常に演奏法や歴史のことを学び続けたり、それをレッスンで応用したり、とても研究熱心なひとである。いわゆるマッチョな感じではなく、おだやかなんだけど、クールな振る舞いをしている。インタビューの最初は、日本でいわゆるクラシック音楽を習うことについての話題から始まった。

音楽の原体験

亀井:日本で音楽を始める環境って、たとえば5歳ぐらいから始めて、音楽がなんなのかよくわからないうちから、先生や親から「できてる・できてない」を問われ続けますよね。白か黒かの世界だから、独特の音響空間や緊張感が音楽の原体験、という生徒さんも多くて、音楽と向き合うことにめちゃくちゃ構えちゃう。自分もそういうところがあったから、わかるけれど。

たとえば、ご飯を食べるために身構えて、儀式のようにドキドキすることはないじゃない。トイレに入ったり道を歩いたりすることと、音楽ってほんとうは同じはずなのに、最初から特別なものとして音楽をやる、日本の独特な習慣ですよね。習い事、価値の高いものとして、親御さんも真面目であればあるほど格式高く、先生に対する礼儀や態度、家での練習姿勢を子どもにしつけていく。それが一般的というか。とくに、ヴァイオリンは難しい楽器だということもあるけれど。

加藤:ピアノだと、またちょっと事情が変わってくるんですかね。

亀井:ピアノだったら、まだ鍵盤を見て子ども自身の感覚で判断しやすいかもしれないけれど……生徒の親御さんに、「親がつきっきりでなくても、子どもひとりでできるような練習方法を教えてください」と言われたことがあるんだけど、小学校低学年の子が、ヴァイオリンの弓をまっすぐ、肘をこう使って、というのを、ひとりで修正するのは、ほぼ不可能です。指板にシールを貼っても見づらいし。

海外だと、ヴァイオリンは小学校5、6年生くらいまで親がついてあげて、ピアノは小学校1年生くらいから自立して練習できると、基準が明文されていると聞いたことがあります。ソースは忘れちゃったけど。

加藤:亀井さんも最初、いわゆるお稽古事から始めたんですか?

亀井:それ以外、なくない?(笑) うちは、叔父が昔やっていたヴァイオリンがあったし、母親もピアノの先生だったので、よけい何かやらせたいとは思ってただろうけど……4,5歳の頃、うちにあったヴァイオリンを床に置いて、こうやって音を出して遊んでたのを覚えてる(両手で弓を持って、床の上のヴァイオリンをこする身振り)。なんか面白くて。それで「ヴァイオリン始めてみる?」って聞かれたことは覚えてます。

加藤:最初は、どんな先生についたんですか?

亀井:桐朋の先生につきました。生粋の桐朋的な先生で、フォームもすごく厳しかった。左手のフォームは、はじめからめちゃくちゃ細かく言われてました。人差し指と親指の間を「トンネル」って言って、ティッシュを詰めたり。「音楽を弾いて楽しみましょう」みたいな感じじゃなかったよ。

ボーイングはけっこう覚えてます。結構しっかり固めて、カチッと持ってた……ちっちゃい子だから、っていうのもあるかも知れないけど。中学のときに、いろいろあって一回ヴァイオリンをやめて、再開したあとについた先生が芸大出身で、けっこう手を柔らかく使う人で、だいぶ変わりました。指弓をやったり、肘を上げるのをやったり。左手の形は、割と悪くない形になってたみたい。

右肘を上げるのをやめる

加藤:さっき「いままで教わってきたことをやめた」とおっしゃっていたけれど、いまの奏法はどんなかたちですか?

亀井:右肘を上げるのをやめました。いままでは生徒さんにも、「肘を上げて腕の重みを乗せる」ように教えてたんだけど、ずっと辻褄があわないと思ってたんです。肘を上げるために上方向に力を使ってるのに、それをさらに降ろして重みを乗せるって、1+2-4みたいで、整合性がない。生徒さんも混乱することが多いし。

それで、1800年代初頭ぐらいに活躍したヴァイオリニストのイラストをみていたら、軒並み肘が下がってて。もちろん、弓の構造や弦の種類は違いますけど、そういう時代があったなら、それもひとつの正解なのかもしれないとおもって試してみたら、すごくやりやすかった。どういうふうに肘を使って、どこにどう重さを乗っける……ってことは、ほぼ説明できるようになりましたね。

加藤:それは、いわゆる現代曲とクラシック、どちらを弾いているときでも変わらない?

亀井:基本は変わらない。肘をあげるのがどうかというのも、価値観の違いで、それぞれの身体つきの相性もある。これは僕の考えで──現代型の、3000人ぐらい入るようなホールで、オーケストラをバックに音量を出すとき、細かいニュアンスはそんなに伝わらない。そんじょそこらの弾き方だと埋もれちゃうし、テンポも自分が引っ張っていく。「パワー100%」みたいなところに、どうやってニュアンスを足すか? 野球のボールを投げるのと同じで、  二の腕とか肩甲骨から腕を振る方が、遠心力は使える。 そういう瞬発性、「音を放り投げる」使い方として、右肘を上げるのが主流になっていったんじゃないかと。

「ヴァイオリンを弾く」って一言で言っても、そこには、数千人単位のホールのアスリート的な弾き方から、アイルランドの伝統的な演奏まで、いろんな幅がある。 今言った、肘を下げている弾き方は、おそらくヴァイオリンが発明されてからしばらく、ずっと主流だったんじゃないかと。昔は教会とか、宮廷の小部屋とか、劇場も1000人単位ではなく、オーケストラもそんなに音が大きくなくて……音圧よりも、音色やニュアンスや音程感の影響が色濃い。

そういう時代には肘を下げる方が、手首で音圧のコントロールもできる。現代音楽も、ひとくくりにはできないけど、細かいニュアンスが大事だし、音響的な作品も流行ってるし、そういう意味で、僕のいまの弾き方はけっこう通用するんじゃないかな。──だから、僕にとっての音楽は、拡声器や街宣カーでみんなに宣言するんじゃなくて、同じ部屋で、こうやって向かい合って話してるメンタリティ。

演奏時の再現

加藤:ヴァイオリンを演奏しているときの身体を、ちょっと再現してもらってもいいですか?

亀井:足はこんな感じで、広い。でも、なるべくナチュラルになるように工夫はしてて。鎖骨の付け根と、左手の親指、もしくは人差し指の付け根の辺りで、バランスを常に取りながら……

加藤:じゃあ、楽器や左肩まわりはずいぶんフリーですね。

亀井:そうそう。だから喋ってるテンションで、そのまま肩に楽器を持ってる感じ。基本、肩の関節は拘束しない。というのは、腕自体は鎖骨から、肩・関節・肘・手首というふうに伸びてます。体の接続してる部分は、本来、自由に浮いてるはずなので、そこを楽器で挟んじゃうと拘束されて、弾きにくい。ヴァイオリンと肩はいつでもフリーにしています。肩当てがある人は、片手と鎖骨でヴァイオリン、そこの3点でヴァイオリンを支えているわけ。

左手も多少使ってるかもしれないけど、弓と弦の接点に8割ぐらい負荷が来てる。私のやり方だと鎖骨と左手のあいだに、ちょうど橋がかかってるような状態になるので、この2つの支点の真ん中を、弓がおさえる。だから安定する。右手だけではなく、左手からも圧を作るという考え。

亀井さんが描いてくれた図

顎と鎖骨で支えて、楽器が低くなる人の場合、楽器を安定させるには、左肩を上げて固定するしかない。制作途中の橋の上と、完成した橋のうえと、どちらに物を乗せる方が安定するかと言ったら、後者ですよね。

加藤:なるほど……尺八のときはどんな姿勢ですか?

亀井:バランスは人によって違うから、それぞれ工夫しないといけないんですけど。脇も開いていると呼吸が浅くなるので、ちゃんと腕を落として、顎をすこし引いているような感じですかね。

加藤:顎を引くのは、頭がちゃんと身体に乗るために?

亀井:それもあるけれど、唇の周りの筋肉って、めちゃくちゃ繊細なんですよ。薄い筋肉がたくさん集まっていて、こういうところの力みが、じかに音に影響してくるから。長時間、どこかに変な力が入った姿勢で弾いていると、だんだん音が出なくなってくるので、頭をちょっと乗せる感覚はあるかもしれない。

加藤:ヴァイオリンと尺八だったら、どっちのほうが身体にしっくりきます?

亀井:(再現しながら)尺八のほうがより自然かもしれない。ヴァイオリンに比べて、楽器が心臓より下にあるので。

空間との関係

加藤:さっき、部屋の中でふつうに話してるくらいのメンタルで演奏する、とおっしゃってましたけど、それはホールでもかわらない?

亀井:あくまでメンタルは。例えばオペラシティの小ホールくらいで弾くときは、全然通用する。本当につぶやいたような音も、届くから。

加藤:空間に規定される身体というか。演奏以外の面もかわる?

亀井:ちょっと影響されるかもね。とくに意識するわけじゃないけど、たとえば客席が高いところでは、胸が上向きになるかな。話すとき、上の方にいる人いるのに下を向いて喋らないでしょ。それと同じで、話相手の位置によって、自分の体の受け方が変わってくる。

加藤:じゃあ、本番直前、舞台袖とか楽屋とかにいるときから入場してお辞儀する間に、ルーティンや、考えてることはありますか?

亀井:ルーティンはないけど、子供の頃に、人前で何かをやるときにわくわくした気持ちを心がけるようにしてます。お客さんは、わくわくしながら待ってくれてるわけだから、こっちが「しんどいな」みたいな感じでやると温度差があるわけで。

ただ楽曲によっては──アンサンブルが難しいとか、注目度が高い本番とかだと、リスクをいかに減らすか、ということも考える。ネガティブ思考ってわけじゃないけど、リスクヘッジに神経が尖ってる。最近だったら、ペダルとタブレット問題もあるし、譜めくりの準備もしておかなきゃいけない。

技巧的にも、体の状態が平常通りかどうか気にしていく。舞台で構えた瞬間に、「いつもと身体が違う」ってわかったりするよね。一瞬で身体と一体化するときもあれば、違和感があって思ったように音程がはまらないときもある。普段練習ではないような気掛かりが、ひとつあるだけで、感覚が全部マスクされちゃうこともあって……それが、僕は肘を下ろすようになってから減った。リスクを克服することと、わくわくした気持ちで出るようにしよう、ということがザッピングしてる。で、結果はもう、毎回違うよね(笑)

加藤:ステージ上の振る舞いとか演奏に関わることで、「男性らしく」とか言われた記憶ってありますか?

亀井:「男性らしさ」の定義次第だけど、少なくとも自分が、具体的に「男らしくしろ」と言葉や態度で言われた記憶はないです。強いて言うなら、6歳ごろとか、発表会でおぼっちゃまっぽい、かわいい格好をするのは好きじゃなかったのと、小学生のころは、ヴァイオリンをやっていること自体が「女っぽい」と思っていて、小学校の友達には、率先して言ってなかった。「空手を習っている」とウソをついてまわってました(笑)

ステージ上では、学生時代に父親から「胸張って歩けよ」とか、言われた気がするかな。ちょっとズレるけど、とある音楽業界の現場で、男性はチンピラっぽく、女性はキャバ嬢的に振る舞う、みたいな習慣を目撃したことはあります。

加藤:なるほど……こう、亀井さんは、普段とステージ上のいかたが、あまり変わらない気がします。演奏する身体になる人もいるけれど、亀井さんはそうじゃないというか。

亀井:体が勝手に緊張しちゃうときもあるけれど、さっき言ったように、喋っている延長で人前でやる、っていうのがモットーなので。日常の、「家の茶の間でご飯食べてたら、勝手に人に見られた」ぐらいのテンションの本番ができたら、どんなにいいかなと思ってる(笑) 

それ、留学したときのベルギーの先生に言われたことなんだよね。日本人の先生で、体の使い方の授業もしてて。confience phisique だったか、「身体の意識」「動きの意識」だったかな。

上手い」じゃなくて「すごい」

加藤:「confience phisique」というのは、どんな授業でしたか?

亀井:みんなでアレクサンダー・テクニーク的な体操をして、ストレッチして、それから車座になって、真ん中でAさんとBさん、ふたりの生徒を組ませる。 Aさんに苦手な箇所を弾かせて、先生がアドバイスしながら、BさんがAさんの腕を持ってあげたり、サポートしてあげる、みたいな。

その授業で先生が言ってたのが、「ヴァイオリンを弾くのはお皿洗いと同じ」とか「皿を洗うときのスポンジの動きと、弓の動きは何も違わない」とか「あなたはヴァイオリンを弾くとき、急に特別視して身体が構えちゃうんだよ」とか……自分ではそんなつもりはなかったけど、ヴァイオリンを弾くとき、身構える人は多い。

日本の音大にいたときは、特殊な技法として極めたいという思考があって。でも、ベルギーで現地で出会った天才的な奏者たちが、軒並みすごくナチュラルなんですよ。努力しまくった結果めちゃくちゃうまい、じゃなくて、ナチュラルに音楽に向き合っていて、癖が強いというか(笑) みんなめちゃくちゃ上手いのに、酒場でも毎晩バリバリに、ジャズのアドリブ大会をしてる。ポーランドから留学してきたエリザベト・コンクールを目指してるようなグループも、セッションをすると、空間がバーンって動くんですよ。身体がもう芸術的に柔らかい。「上手い」じゃなくて「すごい」。

たとえば、観光地に行って、すごい滝を見る。「2000年前から自然に形成された滝です」って言われて、すげえな、こんなのできるんだ、っていうのと同じ感じ。自然体で演奏していて、何か必死で頑張っているものを見せられるんじゃなく、自然現象、芸術的な動物として、現象を見てる。しかも、話すと普通(笑) 

そこで音楽の価値観が変わりました。すごい音楽家ほど普通だな、って。音大時代はスーパーマンになる=上手になるって思い込んでたけれど、等身大のまますごい人こそ、本当にすごいなと思って。

加藤:そう言われてみると、日本のアカデミズムって、いまだにかつての西洋文化への憧れの残像みたいなものを、追いかけているのかもしれませんね。昔、日本にやってきた西洋的な人々って、とうぜん、軍人とかエライ人なわけで。そういう人たちの振る舞いがいまだに残ってるのかも。

亀井:西洋人にとっての音楽は、 家具とか空気とかインフラとかと同じだけど、 日本人にとっては、いまだに調度品なのかもね。若い音楽家世代はだいぶ変わってきた感じはあるけど、一般層にとっては……

尺八と西洋音楽

加藤:自分が西洋音楽をやることに対して、摩擦というか、なにか、感じることはありすか?

亀井:一番わかりやすいところで言うと、尺八をやってるときの自分の居心地と、ヴァイオリンやってるときの居心地ってやっぱりちがう。結構デリケートな部分だから、あんまり浅い言い方はしたくないんだけど、ヴァイオリンをやるときの方が一段ギアを上げて、処理しながら弾く感じがある。尺八の場合は、処理する前にも出てくるものがあって……

喋るときって、自分で「こう喋ろう」とか「こういうことばを使おう」とか考える前に、自分のなかから発してくるものが先に出てきて、自分の語りになる。尺八は、それぐらいナチュラルで、フィルターを通さずにそのままやってる感じが、とくに古典の曲をやるときにあって。

ヴァイオリンも何十年もやってきてるから、自然に出てくるものがたくさんあるけど、 細部になってくると、やっぱりそういう、「処理」がある。即興の場合はちょっと違うかな。音程をどう取るか、 この装飾はどういうタイミングで取るか、 この音はどのくらい伸ばして、どの辺で切ったら綺麗──とか、そういうことを「処理」して、作る。1段、何かが挟まっている感覚です。バッハの時代の人たちは、僕が即興やってるのと同じぐらい、ほぼ処理なくやってたかもしれないけど。

それから、ヴァイオリンの造形ってカールしてるけど、日本の感覚って、なんとなく、ああいうカールに馴染みないじゃないですか。髪の毛とか(笑) 尺八だと、そういう感覚もない。もっと思い込みの部分──何代も前から日本にあって、自然に自分が尺八を持ってるという。

だから、僕がこれから歳をとって、めちゃくちゃボケたら、ヴァイオリンより尺八を吹いてる可能性があります(笑) 「ヴァイオリンは自分でやり始めた」と言いつつ、親にやらされた部分もあるのに対して、尺八は、18歳のとき、自分でわざわざ選んで、自分で始めたわけだから。自分の同一性と、より近いものが尺八なのかな。

音楽との健全な向き合い方

注:ここでいったん、お話を終えようとおもっていたのだが、亀井さんが考える作曲家との関係性や、西洋音楽の問題意識について話が盛り上がったので、残しておく。

亀井:いままで、誰かが作った音楽を消費するのが当たり前だったけれど、本当は音楽って、みんな、それぞれのなかにあるんじゃないかとおもう。たとえば3, 4歳ぐらいの子どもって、勝手にじぶんで歌ったりしてる。100万人いたらその100万人のなかに、ひとつひとつ新曲がある。そういう世界が、ほんとうの健全な音楽の世界じゃないかと。

CD文化がなくなって、ストリーミングがなくなって、YouTubeにもAIがつくる音楽が出てきて……いま、みんなそれぞれ、自分のオンリーワンの音楽を、その場で作れるようになったわけじゃないですか。そうすると、市場に吸い込まれた音楽が解体されて、究極のミクロというか、個人のものになっていくのが理想なのかなと。

ぼくの駆け出しの時代は、クラシックの曲を演奏することが主流で、それに対して、新曲をやるのはインディビジュアルな世界、その場でしか──作曲家と“わたし”の関係のなかでしか生まれない音楽。ぼくはそっちのほうが、音楽の健やかな姿に感じるんです。たとえば、クラシックの有名な交響曲を、神さまが作った曲みたいに崇めて、演奏して、聴く。そういう楽しみ方ばかりだと、ちょっと、健康的じゃないとおもうんです。加藤さんもそうおもいません?

加藤:わたしも、そうおもいます。「そういう楽しみ方ばかりじゃない」とわかっていれば、いいんですけど……だからほんとうは、亀井さんが言ったように、たとえ300年前の人であろうが歴史に名を残す人であろうが、インディビジュアルな感じで向き合うほうがいいんじゃないかと。

亀井:作曲家も、そうやって付き合ってもらうほうが、うれしいんじゃないかな。「そんな拝まれてもな」みたいに困ってるかも(笑) 特別視されて拝まれることに、作曲家がやりたかったことの本質はあまりなくて。多少アラがあったとしても、作曲家の生の感覚みたいなものをやる。「それは作曲家に対して失礼」みたいな捉え方もあるかもしれないけど……

偉い人が「先生」と言われて孤独を感じるのと同じ現象が、クラシックの作曲家にも起きてるんじゃないかと。「けっきょく人だよね」みたいなスタンスのほうが、その作曲家のほんとうの温度感を感じられるんじゃないかな。

西洋音楽をやっている日本人

加藤:西洋音楽を日本人がやるということと、人種差別の問題は避けて語れないはずなんですけど……日本で西洋音楽やクラシック音楽について語るとき、差別の話ってなかなか表に出てこない。みんな口をつぐみますよね。

亀井:なかったことにするよね。20年前の話だけど、ベルギーで「なんで日本人なのにクラシック音楽をやってるの?」って素朴に言われたのを覚えてる。「わざわざなんでここに勉強しにくるの?」って。

加藤:それって、その質問者のなかに「西洋音楽は西洋人や白人がやるものでしょ」っていう前提があるから出てきた問いですよね。

亀井:ベルギーで興味深かったのは、古楽の講習会に参加したときと、コンテンポラリーや即興のコミュニティにいるときと、(日本人の)扱いがぜんぜん違って。即興系の人はすごく話しかけてくるし、友達もどんどんできる。

でも古楽の講習会に参加したときは、日本人やアジア人に、向こう(白人側)から話しかけてくることはほとんどなかった。過去の芸術に関心を向けているときは、アジア人の存在はぜんぜん関係ないけど、コンテンポラリーや即興をやっているときは、多文化とか新しい情報とかが価値の中心。

やる音楽によっても、立ち位置は変わってくる。「クラシックをやっている日本人」という存在は見えにくいだけで、大きい要素なんじゃないかと。現代音楽のいいところは、そういう問題も含めてぜんぶ価値化できるというか。世の中の不条理とか、そういう部分もすべて作品としてとらえる目を持っている。

加藤:そうなんですよね。だからこそ、現代音楽に期待することはたくさんあるんですけど、なかなか難しいところもあるのかなと。

亀井:いわゆる「現代音楽」に関わる一人一人は、それぞれの価値観を持っているんだけれど、コミュニティになると、そのなかでの尺度や価値観がつよくなってしまう。実際には、モーツァルトの曲を弾くのと、ほとんど変わらないメンタルになってしまうというか。

加藤:そういう意味では、「クラシック音楽」を信じる人と同じなのかもしれません。

亀井:それを解体していける人がいないと、100年後に新しい芸術をやる人はいないよね。でもさ、「芸術ってなに?」っていうと、反体制だったり、イデオロギーを解体するのが役割とされていたりする。そう仮定すると、「イデオロギーに染まった芸術は芸術なのか?」っていう。ぼくはベートーヴェンの『第九』って、結構、その走りなのかなとおもうんですけど。

加藤:イデオロギーに依存した上で、それを肯定するのか、解体したり破壊したりするのか、みたいな。

亀井:そもそも、その「イデオロギーを破壊しよう」みたいな発想自体が、西洋的な発想なんですよ。

加藤:ああ、なるほど……

亀井:「環境を大切にしなきゃいけない」といいながら、化繊の服を着てるみたいな(笑) 最近はもう、山のなかで、だれの目にも触れずに暮らすのが最適なのかな、とおもったり……

加藤:誰からも見られない、ということが大事なんですかね。見られることを見ている身体からはみ出すことが。

亀井:たとえば昔の、絵巻物が主流だったようなころの日本人には、そういう「見られる」感覚はなかったのかもしれない。昔の日本やエジプトの壁画なんかもそうだけど、写真を1回も見たことのない人が絵を描くと、遠近法が存在していなくて、物も人間も並列してる。それが遠近法が生まれたことで、主体と客体が固定されて、自分が常に主体で、自分の身体は、見られるか見るかのどちらかになって、第三者視点がなくなって……

もしかして江戸時代くらいのころは、自分も牧場のなかの百人のうちの一人、くらいの意識だったのかも。人が死ぬっていうことは、絵巻物のなかのひとりが消える、くらいの感覚で、自分が死ぬことも、主体がなくなるというより、社会のなかのピースがひとつ消える、いまの人に比べればそれくらいの感覚だったんじゃないか──みたいなことを、最近は考えていますね。


亀井さんとは、このあとも人権の話や昨今の政治情勢の話が続いた。亀井さんはとてもおもしろい人なので、気になる人は、直接お話を聞いてみてください。


ヴァイオリニスト

亀井庸州

2000年ごろから主に同世代の作品初演を中心に活動を開始。2005年よりベルギー王立リエージュ音楽院において、欧州の20世紀音楽や即興演奏を学んだ。2007年より帰国後も引き続き同世代の作品初演活動に携わる。個人企画のほか、東京オペラシティ音楽財団、サントリー芸術財団、みなとみらいホール等の主催公演に出演し、内外の作曲家による室内楽、ソロ作品の初演、再演を中心として活動している。これまでに初演した作品は100曲あまり。また同時に尺八の古典をはじめとした演奏を行なっており、2017年にはcoba氏の新曲を、舘野泉氏とともに初演している。弦楽四重奏として出演した公演において第14回、第18回佐治敬三賞を受賞。

このインタビューは、『アイム・ミート!東京公演』パフォーマンス制作のためのリサーチとして行われたものです。

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演奏家の振る舞いと身体をめぐるインタビュー①北嶋愛季さんhttps://ayako-kato.com/interview-akikitajima/Wed, 13 May 2026 11:01:07 +0000https://ayako-kato.com/?p=21801

北嶋愛季(きたじま あき)さんは、バロックチェロとモダンチェロの二刀流で、いわゆる「バロック/古楽」「クラシック」「現代音楽」、つまり西洋音楽のあちこちをいったりきたりしているチェリストで、ステージでの振る舞いはとても堂 ... ]]>

北嶋愛季(きたじま あき)さんは、バロックチェロとモダンチェロの二刀流で、いわゆる「バロック/古楽」「クラシック」「現代音楽」、つまり西洋音楽のあちこちをいったりきたりしているチェリストで、ステージでの振る舞いはとても堂々としている。舞台に入場してからお辞儀するとき──つまり、演奏する直前、なにを考えているのか聞いてみたら、思いがけない返事がかえってきた。

古武術の精神

加藤:北嶋さんは舞台に入場して、お辞儀するとき、なにを考えてますか?

北嶋:「すいません」って思いながらお辞儀してます。

加藤:(笑) え、ほんとですか?

北嶋:本当です(笑) つい「やってやろう」って思っちゃうけど、駄目です。自分のエゴを出しちゃ駄目。懺悔です。懺悔してから始める。

加藤:じゃあ、弾き終わってお辞儀をしているときは、なにを考えていますか?

北嶋:「すいません」「こんなんですみませんでした」って思ってます。

加藤:(笑) 本番中、演奏しているときは何を考えていますか?

北嶋:わかんない(笑) 何かを「考えて」はいないかな。ほんとうにその場所とか、音に集中している自分と、それを遠くから見ている、もう一人の自分がいる感じかな。

毎回、そううまくはいかないけれど、そのための訓練もしています。自分で練習しながら、自分の音が向こうに届いている意識を持つ。遠くで鳴っている音は実際には聴けないけど、意識を向けることはできるので。

加藤:なるほど。ステージ上の北嶋さんをみていると「懺悔」とか「すみません」なんてことばは、とても想像できなかった。腹が座っているというか、堂々としているから。チェロの性質もあるのかも。

北嶋:懺悔については、大学時代にとっていた古武術の授業で、長谷川先生が教えてくれたんです。わたしが通っていた桐朋学園は、体育がすごく充実してました。古武術(講義・体術)でしょ、アーチェリーでしょ、難波歩きでしょ、カポエラでしょ、手裏剣でしょ。

加藤:手裏剣?

北嶋:そう。わたしは体の使い方に興味があって、体を動かすのも好きだったから、ほぼ全部とってました。古武術では、どうやって最小限の力で大きな音を出すかとか、さっき言った懺悔のような、武術の精神みたいなものも教わりました。いまでもたまに先生のクラスに行きますね。特に弦楽器は「自分がどう動くのか」によって音が大きく変わるので、私は関心があったし、他の楽器の生徒もたくさん受講していました。

加藤:なるほど。わたしは昔、演奏家らしく=大人の女性らしく振る舞いなさい、とまわりから言われた印象がつよくて。北嶋さんはそういう経験はありますか?

北嶋:「女性らしく」は、ぜんぜん言われたことなかったなあ……ドレスも、高校に入って、チェロアンサンブルがあるから初めて買ったくらいで、チェロの先生の発表会でも基本的にパンツスタイルで出ていました。あ、でも、子どものころ参加したピアノの発表会では、ドレスのほうがいいって、どなたかに言われたみたい。わたしの親の証言ですが(笑)

身体の使い方

加藤:体育で習ったことは、演奏にどう生きていますか?

北嶋:自分の体をどう動かしているのか、ちゃんと認識するようになりました。自分がいま、身体のどこをどう動かしているのか。仙骨をこうやって動かすとか、骨盤をこうやって動かすとか、繊細な感覚を持つようになった。こういう話って、普段の練習でも、レッスンで教える時にも役に立ちます。

たとえば、チェロのダウンボウを楽に、強く弾くとき、わたしは野球の話をします。向こうから速いボールが飛んでくるとして、それをバットで打ち返す時、「最初に動かす身体の部位はどこですか?」って聞くんです。これって腕でも頭でもなくて、足なんですよね。体重を後ろに移動して、片足をあげて、しっかり踏み込む。そのエネルギーが、足から腕や手に伝わる。

バットを振り上げる動き

楽器の演奏って、局部的に身体を使うから疲れるんです。 だから、できるだけ全身を使って、力を分散させる。体育実技で抜刀の練習もやったんですが、腕を左右に引きながら、腰を下に落とすんです。そうすると力強く、尚且つ素早く剣がぬける。それが全身を使うってことですね。

加藤:抜刀の動きって、チェロっぽいですね。

北嶋:たしかにそうかも。

抜刀の動き

加藤:身体の使い方でいうと、呼吸の話もしますか?

北嶋:自分でもよく意識するし、生徒さんにも伝えます。弦楽器って、息を止めて弾ける楽器じゃないですか。でも、息を止めている時と呼吸を意識しているときでは、ぜんぜん演奏が変わります。歌ったり喋ったりしているように弾きたいから、ポジション移動とか弓の返しとかが目立たないようにする。自分がどこでどう意識して、次のフレーズをしゃべりたいのかが大事ですよね。

加藤:歌いながら弾く練習もしますか?

北嶋:ベースラインを弾きながら、メロディを歌うかな。ピアノを弾きながら歌う練習もするけれど、あんまりピアノが得意じゃないから、楽器の練習になっちゃう(笑) 生徒さんにも、わたしの前で歌うのは嫌だろうから、「家で歌ってみて、どう息継ぎしたいか考えてきて」ってリクエストします。

エネルギーと聴く身体

加藤:そもそもエネルギーって、なんでしょう。運動? 気? 「硬い」か「柔らかい」だったらどっちでしょうか?

北嶋:柔らかくて、しなやかな強さかな。液体みたいな感じ。 

加藤:なるほど。そういう、音楽で何気なく口にする概念で言うと、「響き」ってなんなんでしょうね。たとえばカルテットで、よく「4人の響きを聴く」って言いますけど、これって実際、どうやってるんでしょう。具体的に、どこを聴くイメージですか?

北嶋:(部屋の反対を指差しながら)向こうかな。 向こうと、(目の前の中を指しながら)ここの、両方かな。

加藤:つまり、2つのポイントを同時に聴いている?

北嶋:うーん、実際に聴こえているのはここだけど、向こうにどう聴こえているかを想像する、っていうことかな。

加藤:弾く身体と聴く身体って違う気がするんですが、どうおもいます?

北嶋:聴く身体って、あまり考えたことなかった……たしかに、どうやって聴いてるんだろう(笑) 「弾く」と「聴く」が同時に行われてるのかな。 

加藤:たとえばカルテットとソロだと弾く身体は変わりますか?

北嶋:変わらないですね。オーケストラのときは、まわりに溶けるというか、馴染む感じだけど、基本的には変わらないかな。

加藤:オーケストラのなかで溶ける感覚って、それこそ、聴くことに9割ぐらい身体を使っているから、なのかもしれませんね。わたしはカルテットみたいな小編成のアンサンブルで、周りの音を聴くことと、自分がちゃんと弾くことのバランスを取るのが苦手なんですよね。

北嶋:(オーケストラのなかで)弾くほうより聴く方に重心を置く、っていう感覚は確かにわかるかも。実際、自分の音が聞こえづらいのもあるけれど、近くの音より、より遠くで鳴っている音を意識して、自分が「森」の一部になるイメージ。

加藤:たとえば、普段じぶんが「いちばんリラックスして弾いているなあ」っていうぐらいのときと、オーケストラのなかでまわりと馴染もうとしているときの身体の違いってどんなものですか?

北嶋:(再現しながら)構え方自体はそんなに変わらないけど、振りが小さくなるよね。 ここぞってときは動くかもしれないけど、基本的に小さくなる。身体も左右に振れないし、それこそ、上がってくるエネルギーがレスになる感じかな。

普段の身体
オーケストラのなかの身体

バロックと現代とクラシックの違い

加藤:バロックチェロの演奏でも、下半身からエネルギーが上ってくる感覚ですか?

北嶋:基本的に同じだね。もちろん、楽器がふくらはぎに乗っているから足は動きにくいけど、上半身は自由だから、むしろモダンよりも動けるかもしれない。

加藤:バロック楽器を弾いているとき、どんな身体のイメージか教えてもらえますか?

北嶋:モダンの場合は、エンドピンがあって楽器が寝るから、弓や腕を上から乗せるイメージになる。 バロックは楽器が立ってるので、(身体を左右に振りながら)こういう体の使い方がより出来るようになる。弦の幅も違うから、上半身を動かさないといけないけど、それが逆にいい。 支えがないと、安定するの。よくバランスボールに座って練習したんだけど、あれって超不安定じゃない? その不安定さのなかで安定を見つける。一見、不安定だけれど、身体は自由になってるから安定する。支えが大きければ大きいほど、動ける範囲が狭くなるから。

加藤:左手の感覚はどうですか?

北嶋:やっぱり柔らかいよね。ビブラートもほとんどかけないし、モダンほどしっかり押さえなくても音が鳴る。

加藤:ヴァイオリンだと、左手で弦を押し潰しちゃう人が多いんですが、チェロはどうだろう。

北嶋:チェロは弦圧が高いし、指にかかる重さに耐えられるだけの筋力が必要かな。とくに四の指(小指)は、耐える力が必要かもね。よく子どもの生徒さんが、体力測定で左手の握力だけ強かったって言ってる(笑)

加藤:わたしもそうでした(笑)

救いのある世の中

加藤:舞台に上がる前の話に戻りますが、入場直前の舞台袖ではどんなことを考えています?

北嶋:自分がなぜ演奏するのか、を考えます。原点回帰ですね。

加藤:なぜ原点回帰するんですか?

北嶋:わたしの場合、エゴが出てきちゃうので、「そうじゃないよ」「なんでわたしは音楽やってるの?」って確認するんです。呼吸を意識して、できれば床に正座するか胡座をかいて、お腹の下から順に、身体に空気を入れていく。古武術の先生の教えがここでもずっといきています。

加藤:なるほど。じゃあ、北嶋さんは、なぜ音楽をやってるんですか?

北嶋:すごく大きなことを言うと、救いのある世の中にするため。わたしの演奏を聴いた人も、わたしと一緒に弾いている人も、音楽を通して救われてくれたらいい。そうすると、結果的に自分も救われるわけだから。そのためにはやっぱり、自分のエゴっていらないよね。

加藤:いつごろからそういう感覚を覚えるようになりましたか?

北嶋:ドイツに留学していたころじゃないかな。音楽を始めてから、けっこうあとだね。もちろん、大学で習った古武術や講義も大きく関係してるし、自分で心理学や教育や、色んなことを勉強しながら、だんだん模索していったら、こうなったのかな。

加藤:西洋音楽と古武術がリンクするって、おもしろいですね。

北嶋:西洋音楽に限らず、芸術にひろく通じるんじゃないかな。ひとつの精神みたいなものだから。

加藤:それって本番だけではなく、リハーサルでのコミュニケーションにも影響していますか? 演奏家はみんなそれぞれ、違うコンセプトを持って臨んでいるわけで。

北嶋:意識下にもちろんずっとあるけど、リハーサルのコミュニケーションで「その音で人を救えるのか?」とかは話さないよね(笑) 方向性は違っても、行き着く先が一緒であればいいし、リハーサルって話すことは具体的じゃない? 「そこの音程ちょっとやろうか」とか。

芸術の前に、わたしのちっぽけな個性なんてものは必要ない。音楽が創りだす「世界」みたいなものは、わたしというフィルターを通っていく。わたしの身体はスピーカーみたいなものだから、できるだけクリアで、透明な状態がいい。そうなれるように、日々精進、ですね。


©Shu Nakagawa

チェリスト

北嶋愛季

アンサンブル・モデルン・アカデミー、フランクフルト音楽大学古楽器科修了。現在、放送大学教養学部 (心理と教育コース)在籍。 2018 年よりバロックとモダン 2 台のチェロによる独奏演奏会を定期的に開催。国内外の現代音楽祭や演奏会に出演し、同世代作曲家の初演にも多く携わる。即興デュオ OKA-ARUKI、近現代の室内楽曲を探求・発表する「みのりて」、親子向けワークショップと演奏会を行う ciel 各メンバー。保有資格:保育士、音楽療法士、音楽心理士、GCS 認定コーチ。

このインタビューは、『アイム・ミート!東京公演』パフォーマンス制作のためのリサーチとして行われたものです。

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序:演奏家の振る舞いと身体をめぐるインタビューについてhttps://ayako-kato.com/interview-preface/Wed, 13 May 2026 11:00:05 +0000https://ayako-kato.com/?p=21941

音楽家の身体と振る舞いをめぐるレクチャー・パフォーマンス『アイム・ミート!東京公演』のためのリサーチで、2026年4月、複数名の西洋音楽を実践する演奏家にインタビューをおこなった。本WEBサイトには、ご協力いただいた方々 ... ]]>

音楽家の身体と振る舞いをめぐるレクチャー・パフォーマンス『アイム・ミート!東京公演』のためのリサーチで、2026年4月、複数名の西洋音楽を実践する演奏家にインタビューをおこなった。本WEBサイトには、ご協力いただいた方々のうち、アーカイブとして公開できるものを掲載している(2026年5月時点)。

以下、一連のインタビューを企画した意図と、編集方針と、わたしの個人的な所感をまとめておきます。

企画意図

『アイム・ミート!』はおもに「クラシック音楽」のヴァイオリニストをめぐる作品だが、今回はクラシックだけではなく、ひろく「西洋音楽」──現代音楽や即興演奏等を含む──を実演する、弦楽器属の演奏者にご協力をお願いした。クラシック音楽的な身体や振る舞い、制度を、もうすこし広い視野で見つめたいと考えたのと、単純に構造的な問題として、「クラシック音楽」という市場制度の只中に身を置く人は、今回のような取材にはそもそも応じにくいだろうと考えたからだ(いつかは、そういった人々の話も聞きたいのだが、その人たちの話をこうして表に出せる可能性は限りなく低いとおもう)。

質問内容は、いくつか、全員に共通してたずねたものもあったが、基本的に話はいろいろな方向に広がった。演奏技法的な話もあれば、精神性に触れるもの、幼少期や学生時代の体験談。そのひとがいま、わたしの目の前で「話したくなっている」ことが膨らむように、進行したとおもう。結果として「インタビュー」より「対談」っぽさがなくもないけれど、メインで話しているのは取材相手なので、インタビューのほうが適切だと判断した。

取材と編集方針

いわゆる「インタビュー記事」は、その演奏家のブランディングやマーケティングのために行われ、雑誌や新聞といったメディアに掲載される。そこで行われる執筆は、個人的な感覚で言えば翻訳に近い。話し言葉を、書き言葉に清書する。できるだけ語尾の重複を避ける。可能な限り、誤読を招かない、マイルドでやわらかなことばに置き換えていく。

今回のインタビューでも、WEB上に公開するという特性上、もちろん、そういった作業はおこなった。けれど一方で、できるだけ、話してくれた人たちの声質がイメージできるような、生きているというか、生っぽさというか、──つまりなんらかの“肉”っぽさみたいな、そういうものが、すこしでもアーカイブできるよう、つとめたつもりである。

所感

自分の過去や振る舞い・内面を振り返る演奏家を目の前にしたとき、かれら彼女らではなく、かつての自分を見通す自分に気がついたのは、何人目の取材だったか。レッスン室で、コンクールの会場で、受験会場で、舞台で、リハーサルで、ふとした休憩時間で、演奏家/ヴァイオリニストとして振る舞い続けてきた「わたし」。わたしは、他者の話やことばを聴き出し、テキストとしてまとめながら、常に、ここではないいつかの、かつてのあまたの「わたし」を咀嚼せざるをえなかった。

どこかで耳にしたことばもあった。思いもしなかったことばもあった。

かつての「わたし」が出会いようのなかった、他なる演奏家のことばたち。

これまであまたのことばをこの身に刻んで、埋め込んできた「わたし」が、いま、あたらしいことばを目の当たりにして、何を選ぶべきなのだろう。

このインタビューの内容が直接『アイム・ミート!』のパフォーマンスに影響するかは、正直、これを書いている時点ではまだ不透明で(そろそろ透明にしなくちゃいけないのだが)、でも、間接的な影響はすでにある。

最後にあらためて、リサーチ/取材に協力してくださったみなさんに、感謝申し上げます。

このインタビューは、『アイム・ミート!東京公演』パフォーマンス制作のためのリサーチとして行われたものです。

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【MEDIA】Intoxicate vol.181 & Mikikihttps://ayako-kato.com/media-intoxicate181/Wed, 22 Apr 2026 10:55:03 +0000https://ayako-kato.com/?p=21829

フリーマガジン「Intoxicate vol.181」およびWEBメディア「Mikiki」に『アイム・ミート!東京公演』コラム記事が掲載されました! 肉塊からヴァイオリニストへ――加藤綾子のレクチャーパフォーマンス〈アイ ... ]]>

フリーマガジン「Intoxicate vol.181」およびWEBメディア「Mikiki」に『アイム・ミート!東京公演』コラム記事が掲載されました!

肉塊からヴァイオリニストへ――加藤綾子のレクチャーパフォーマンス〈アイム・ミート!〉東京公演が開催 | Mikiki by TOWER RECORDS

執筆は編集/音楽ライターの原典子さんです。ぜひお読みください!

「Intoxicate」は全国各地のタワーレコード店舗およびホール、美術館等で入手できます。くわしくはこちらをご参考ください

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【NEWS】“I’M MEAT!” has won the MVP Award at the Kanagawa PAA 2026!https://ayako-kato.com/news-mvpkanagawapaa2026/Mon, 16 Mar 2026 12:38:25 +0000https://ayako-kato.com/?p=21718

加藤綾子『アイム・ミート!かながわPAA版』が、「かながわパフォーミングアーツアワード2026」MVP賞を受賞しました! 『アイム・ミート!』初演からこの日まで、関わってくださったすべての方々に、あらためて感謝申し上げま ... ]]>

加藤綾子『アイム・ミート!かながわPAA版』が、「かながわパフォーミングアーツアワード2026」MVP賞を受賞しました!

『アイム・ミート!』初演からこの日まで、関わってくださったすべての方々に、あらためて感謝申し上げます。

これからも精進してまいります。

“I’M MEAT! Kanagawa PAA ver.” has won the MVP Award at the Kanagawa Performing Arts Awards 2026!

From the premiere of “I’M MEAT!” to this very day, I would like to once again express my heartfelt gratitude to everyone who has been involved.

I will continue to do our best.

『アイム・ミート!東京公演』は2026/5/20開催!

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