評者:植村朔也
ヴァイオリニストのためのフィクション 加藤綾子 ソロ・リサイタル・シリーズ
2025年4月4日(金)夜の部・19:10開演
神奈川県川崎市 小黒恵子童謡記念館
テレマン:無伴奏ヴァイオリンのための12のファンタジアより
サーリアホ:ノクターン
林光:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
ヴァインベルク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1番
小栗舞花:生前のバイオリン、こないだの人(初演)
「ヴァイオリニストのためのフィクション」。ヴァイオリニストの加藤綾子が2年ぶりに開催したソロ・リサイタルの公演名である。しかし、少なくとも私にとって、同リサイタルを「フィクション」として受容することはきわめて困難であった。加藤はクラシック音楽や現代音楽を専門領域とするが、そのいずれにも明るくない私は演奏をフィクションとして分節化するための符牒を読みとることができず、ヴァイオリンの音色が立ち上げる豊かな空間性に引き込まれ、ひたすらに聞き入ってしまったのである。
とはいえ、事態は必ずしも私のリテラシーの貧困から説明しつくせるわけではない。そもそも、一般に音楽の演奏というものは、本来フィクションなる概念との相性はよくないはずなのである。舞台上の人間の言動を、人はどんなときにフィクションであると判定するのだろう。私の専門である演劇に引き付けて考えてみる[1]。

演劇において、舞台上で交わされるコミュニケーションは二層的である。舞台上の人物Aが別の人物Bに向けて語る言葉は、実は観客にも聞かれている。しかし、AとBは劇世界のなかで、劇中の登場人物として言葉を交わしているのに対して、ふつう観客はこの劇世界の外部に座を占めている。この論理階層の差異のゆえに、たとえば観客は登場人物の不幸な運命を俯瞰的に予感し、あるいは登場人物同士の考えの行き違いをまざまざと見て取り、その言動のアイロニーを堪能することができるようになるのである。演劇において劇世界が舞台上に安定的に成立する根拠のひとつは、このコミュニケーションの二層性にある。
この二層性は客席と舞台とを截然とわける劇場の機構に対応している。しかし、実のところ、舞台と客席の境界が明瞭でない野外空間のような場所でも、演劇の二層的コミュニケーションは発生しうる。というのも、人は自らの言動に反意信号を織り込むことができるからである。私が今話していることを文字通りの意味で受け取られては困ります、というほのめかしのサインを、演技中の俳優は身体中からまんべんなく発しているのである。
しかし、注意が必要なことに、私がここに述べた「反意信号の身体」は、「演技する身体」とほとんど同義でありながら、なお若干の位相差を抱えている。というのも、「演技する身体」は必ずしも反意信号を発しないのである。たとえば、舞台上の音楽家やダンサーは、観客の視線を一方的に浴び、またそのための相応の準備をしているという点で、ふつうではない状態にある。すなわち、演技をしている。しかしだからといって、舞台上のダンサーの一挙手一投足や、音楽家の奏でる音楽を、観客はそれそのものとして受け取っていけないわけではない。すなわち、そこには反意信号が存在していない[2]。
このように整理してくると、なぜ音楽がフィクションと相性が悪いと言えるのか、お分かりいただけることと思う。すなわち、ふつう音楽の演奏において、観客は音をその音そのものとして聴取する。そして、演奏者が演奏し、耳にしている音楽と、観客が聴取する音楽との間には、もちろん賦与される意味合いや文脈の異同はあれども、論理階層の差異はない。楽曲は反意信号を発することはないし、演奏者と観客の間にあるコミュニケーションは単層的である。ここにフィクションの発生する余地はないのだ。

とはいえ、ちゃぶ台をひっくり返すようだが、それでも私は今回の加藤のソロ・リサイタルをフィクションとして観賞しようと努力するよう促されたし、その努力は困難だったなりに私の鑑賞経験を充実させる方向へ、それなりに大きく作用したようにも思える。書いたように、加藤の演奏それ自体には、私は目立った反意信号を見て取ることはできなかった。しかし今回の公演の場合、ほかならぬ「ヴァイオリニストのためのフィクション」という公演名がきわめて強い反意信号を放ち、私の鑑賞経験を輻輳化したのである。
たとえば、演奏を演奏として受け取らないでみる、すなわち眼前で繰り出される加藤の見事な腕さばきをヴァイオリンの名手のそれとしてではなく、単に見事にさばかれるただの腕としてしばらく注視してみること。このような即物的で殺風景な見方が、非プロパーだという私の引け目を拭い去って、その場で起きている出来事の多さにかえって目を開かせるのだから不思議なものだ。

また実のところ、演奏する加藤の姿勢もこのような見方を後押しするものであった。両足をひらいてすっくと立ち、不敵な笑みを浮かべながら、何者かと対峙するかのように、耳を鋭く澄ませるようにして弓を動かす加藤の身振りは、どこか意外であった。というのも、これはただの素人考えかも知れないが、ヴァイオリニストといえば楽器と一体になって全身を揺らし、陶然と音楽に身を委ねているものだと私はすっかり思いこんでいたからだ。加藤の安定した全身の構えはヴァイオリンとヴァイオリニストをそれぞれ独立の個として浮き立たせる。それに全身の身振りが小さい分、腕の激しく自在なストロークは一層強調される。腕が加藤の意志からも自律した、なにか別の生き物のようにさえ見えてくる。また事実、私はこうした演劇的な見立てを、リサイタルのさなかに幾度かくり返しもしたのである。
私が加藤の演奏を聴くのはこれが初めてのことだが、彼女は即興演奏を行うヴァイオリニストとしても知られている。即興とは、歴史的に蓄積されたフレーズの蓄積や、演奏過程における自身の足跡を振り払う、飛翔の身振りの連続としてあるだろう。つまり即興演奏家は、演奏のさなかにおいて、過去の偉大な先人たちやほかならぬ自分自身と対峙し、やりとりをしているのである。その、観客の私には思いも及ばないような、しかしそこで確かに加藤が「誰か」と取り交わしているのだろうやりとりに思いを馳せること──そのような二層的な聴取に及ぶことができたのも、演奏をフィクションだと思えばこそである。今回演奏された楽曲はほとんどが明瞭に記譜のされた非即興的音楽であったが、演奏をフィクションとして受け取らせる今回の公演の設えは、表向きは非即興的な演奏の、しかし紛れもなく即興的な側面に観客の耳をひらかせるための、加藤なりの戦略だったかもしれない。もしも私のこの見立てが当たっているのだとしたら、すなわち演奏をフィクションとして成立させることが、即興演奏家としての加藤の問題意識から内発的に選び取られたのだったとしたら、その戦略にはさらなる探究や深化の余地があるし、そのし甲斐もあるだろうと感ずる。

ところで、最後に演奏された小栗舞花作曲の《生前のバイオリン、こないだの人》は、実は極めて演劇的な作品だった。加藤は木製の柱に鎖骨を当てて、木の棒をこすらせる。柱がヴァイオリンに見立てられ演奏されているのだが、そこに起きている現象は、文字通りには木柱と木の棒の摩擦でしかない。その後もヴァイオリンはほとんど弾かれはしないのだが、加藤はヴァイオリニストとして、いくつもの演奏を続けていく。私が観劇した夜の回では加藤がひとりでこれを演じていたのだが、どうやら昼の回では小栗が舞台上で加藤と共演していたらしい。きっとそこでは、インプロヴィゼーションと呼ぶにふさわしい交感が、二人の間で交わされていたのだろう。一方で、私が観た夜の回の加藤は、ジャドソン教会派のタスクの手法のように、淡々と演奏行為を遂行していった。そこに即興の印象は、表向きは希薄であった。しかし、それでも加藤は不在の小栗と即興していたのに違いない。なるほど、これはよくできたフィクションである。それで、どうやら私の見立てはそう筋違いでもないらしいことが、知れたのだった。
[1] 以下の議論は佐々木健一『せりふの構造』を参考にしている。
[2] ここでは議論の単純化のために、俳優とダンサー・音楽家を対比的に語っているが、事態を本質的に差異づけるのはジャンルではなく、それぞれの舞台が観客と取り交わすコミュニケーションの様態の方である。
植村朔也(うえむら さくや)
批評者。1998年12月22日生まれ。千葉県出身・在住。スペースノットブランク保存記録。過去の文章に「柴幸男 劇場の制作論」「その手のもとに「劇場」はある」(演劇最強論-ing webサイト掲載)「質問の陥穽 あるいは、透明性の時代」(スペースノットブランク公式サイト掲載)など。DaBY ProLab 第1期 乗越たかおの”舞踊評論家【養成→派遣】プログラム”、世界に羽ばたく次世代クリエイターのための Dance Base Yokohama 国際ダンスプロジェクト”Wings”に参加。
X(旧Twitter)@sakuya_uemura