評者:青木 直哉
「肉をさ、ヴァイオリニストにしていくんだよ」と、一言でこの作品を説明してみた。友人に。
当たり前なんだけど、全然伝わらなかった。
そうですよね。肉がヴァイオリニストになるわけがない。演者の60分にわたる必死の働きかけによって、生肉がクライマックスで急に立ち上がり、『情熱大陸』を弾き出すわけではない。いや、それはそれで観てみたいけど、そういうことじゃない。確かに使われているのは大きいブロック肉で、薄切りロースよりは立ち上がりやすい。でも肉塊は、ヴァイオリンの弓を持てない。
じゃあ、どういうことか。
生肉はたしかに使われる。だが、それは演者の「肉体」のメタファーとして机に横たわり、言葉を書いた紙がブッ刺されていくのである。

観客の正面にプロジェクターで堂々と映し出されるのは、肉のかたまり。
加藤は、実際にはまな板の上にあるその肉に、まずティアラを載せる。すると大画面上に、ちょっとお茶目なお肉が爆誕する。そして、これからこの肉をヴァイオリニストに育てていきます、と宣言する。
加藤は、小さなふせんを手に取る。そこには「メンデルスゾーン」とか「女の子には音楽をやらせてあげたい」とか「きれいな背中」とか、いろいろと書いてある。そしてそれを、まち針で肉のかたまりに一枚一枚刺していく。観客はその様子をクロースアップで見ながら、加藤の半生に関する話(レクチャー)を聞く。
これがこの作品の大枠である。
加藤はヴァイオリニストだ。幼少期からヴァイオリンを弾いている。Webサイトのバイオグラフィには「クラシック音楽やヴァイオリンを、女子のたしなみとして始め」たことで「ヴァイオリニストという振る舞いは、文字通りわたしの身体の一部となりました」とある。
つまりだ。ふせんだらけの肉と同じように、加藤もヴァイオリニストとしての振る舞いを身体のいたるところにピンで刺されており、引き剥がせないでいる人間なのだ。プロジェクターでドーンと観客の前に映っている肉塊は、加藤だ。
この説明だとかなりセンセーショナルな作品に聞こえるが、実際のところ、グロテスクだ、危険だ、と感じる部分はあまりない。ヒステリックな雰囲気を装って、不快感を引力に変えようとする作品でもない。演技中、加藤は常にフラット、むしろややコミカルだ。肉というメディアがちょうどよかったので、今日はこれでやっていきます、というような、算数の先生がデカい三角定規を使うような雰囲気で肉を使う。ふせんの色もポップだし。

加藤は言葉を刺す際に、観客にそれを復唱させる。この「復唱」により、観客は言葉を見るだけではなく、「聴く」ことにもなる。加藤のことばによれば、これは音楽家が演奏時に持つ感覚とも重ね合わせられている。音楽を鳴らしているとき、音楽家がやっていることは「聴く」ことだ、と。
加藤の演奏時の感覚、成長する過程でかけられてきた言葉、それを自らの頭で反芻してきた経験、さまざまなファクターが織り込まれた「復唱」だ。
そして「観客が肉にかける言葉」という構図は、「社会がヴァイオリニストにかける言葉」という比喩を強調していく。
言葉のつみかさねで伝わってくる加藤の葛藤の軌跡は、とても興味深かった。大変な業界だなぁ、と思う。
ヴァイオリニストは、作品を奏でる際に「作曲家の精神を背負」わなければいけないそうだ。女子がヴァイオリンを演奏するにあたっては「綺麗な背中を見せて、優雅に歩き、美しく自然な微笑みをたたえ、普段の自分とは別人となること」が求められる。
うーむ、重いぜ。自分の感性で完全フリースタイルでやるわけにはいかないんだな。それぞれの身体や態度の個性を、音楽が広く柔軟に受け止めてくれるのではない。音楽のために、身体や態度を変革することが強く求められるわけだ。
僕はクラシック音楽に関して門外漢である。よく知っているパフォーマンスの世界は、ジャグリング。そう、僕はジャグラーなのだ。
ジャグリングの世界には、別にこれといった規範もないし、こうあるべき、という圧力もない。そもそもそれを語ってくるような先生、つまり明瞭な「上の存在」がいない。YouTubeを見て、自分の部屋で勝手に練習して上手くなっただけだ。自由のかたまりみたいなものである。そういう視点から見ると、加藤が浴びてきた業界における要請は、非常に窮屈に聞こえる。
クラシック界内部の特徴について、丁寧な語りを聞く機会を得られる、という点はこの作品の大事なポイントである。レクチャーとしての機能が、しっかりとある。音楽の文脈ではなく、舞台芸術の場に置かれる形式で、音楽をやる側の人生の、深部についての思考を、部外者に向けて発表している。聞く側にとっては新鮮である。そして、このような存在がクラシック音楽の世界では稀有であることも、同じ回で鑑賞していた音楽家の友人から聞いた。

加藤は言葉だけではなく、自分の身体も批判の道具として提示する。喋りながら不自然なポーズでシャツを半脱ぎして背中を見せたり、ケースに入れた弓をバットのように振ってみせたり。ジェンダー、伝統、たくさんの規範を求められてきた自らの音楽人生が作ってきた身体の、「そうじゃない方」を見せる。加藤は、ただのレクチャーとは違うものとして、生身で語り、見せる現場でこその工夫を重ねる。
僕は一人のパフォーマーとして、ここを特に議論したい。
加藤はこの作品で、「自分のことば」でパフォーマンスを行うこと(行なっているように見えること)をモチーフの一つにしている。それはWebサイトの本公演ページ、MESSAGEの項を読むとわかる。
「わたしはなぜ、これまで、わたし自身のことばで語ろうとしなかったのか?」
これを課題として、この作品が出発していることを述べているのだ。
その発露として、たとえば加藤は知り合いと話すようなフランクな口調で喋る。時には「〜〜でさぁ、〜〜じゃん」など、親友と喋っているくらいの口調で話をする。これは、充分にありうる選択肢で、効果的な場面もあった。
しかしここには、彼女なりの気恥ずかしさも見てとれた。そしてそれがノイズとして機能することがあった。話しながらずいぶんフラフラしているときは、よう、しっかり立ってくれ! と思う瞬間もあった。加藤は演技後、アーティスト・Aokid氏とのトークショーで、脱力しようとするとどうしても動いてしまう、と語っていた。それが自然な振る舞いであると。僕は、それが、レクチャーとしての効力を減ずる方に働いている時があると感じた。
この稀有な作品で、さらにブラッシュアップした部分を見たいとすれば、加藤の「語りへの引き込み」についての探究だ。言葉が大事な作品だからこそ、である。これまでにヴァイオリニストとして使い込んできた身体のOS(オペレーティング・システム)とは異なるOSを、「素の自分」で間に合わせるのではなくて、試行錯誤で自らの力で作り上げていく。容易ではないが、その難しさに立ち向かうことも、この作品の射程にあるだろう。加藤の持つ優れたユーモア感覚を、さらに的確に増幅させる振る舞いが、きっとまだある。
でもこんなことを言いつつも、加藤は十分にそれを理解しており、これからどんどんその点も磨き上げていくのだろうとも思う。観客からどう見えているのか、第三者と互いに信頼できる環境で、忌憚なく意見を聞き、トライ&エラーを繰り返して、少しずつテクニカルに追求していくことができる演者だ、という期待がある。こうして、文章をあまり関わりない僕のような人に頼んでいることひとつとってもそう思うし、彼女の文章を読んでいてもわかるし、なんせ「肉をヴァイオリニストにしよう」という着想を60分の作品に仕上げられる人なのだ。

そう、僕が高く評価したいのは、加藤の批評精神なのである。パフォーマンスそのものに限らず、加藤は本パフォーマンスの東京公演Webサイトに、「演奏家の振る舞いと身体をめぐるインタビュー」として、自身で取材・編集をした音楽家との対話を載せている。この記事がべらぼうに面白いのだ。
インタビューのセンスには、その編者の批評眼がもろに出る。話し手の選定から、質問の角度、文章の切り取り方まで。そこにおいて、加藤はとても高い能力を発揮している。
加藤は根っからの「言葉の人」なんじゃないか、と思う。言語で大いに思考していることがあり、まずはそちらがいつも先に出るのだろうと睨んでいる。だから、身体の振る舞いはどちらかというと後からついてくる。それが加藤なりの順序なのかもしれない。僕も自分でジャグリングの雑誌を作っていたことがあって、随分と言葉で考えてきたので、なんとなく通じるものを感じる。まぁ、ベクトルはだいぶ違うかもしれないけれど。
そんな加藤を、僕はこれからも大いに応援したい。彼女に驚かされたいし、僕も驚かしたい。ジャンルは違えど同じパフォーマーとして、注目している。
青木 直哉(あおき なおや)
1991年横浜生まれのジャグラー通訳者。2006年より独学でジャグリングを習得。大学在学時に、批評家の故・加藤典洋氏の指導のもと、米国のジャグラージェイ・ギリガンに関する論文を執筆。その経験から「書くジャグリングの雑誌: PONTE」を立ち上げ、2014年〜2019年まで紙雑誌を発行。ジャグリングとことばを通して世界を見聞し、人と繋がることが生きがいであり、世界のサーカスフェスティバル行脚を経て、現在はサーカス、ダンスをはじめとしたパフォーミングアーツシーンにおける通訳・翻訳を生業としている。2020年からは、横浜の本屋・生活綴方を拠点としてZINEやフリーペーパーの形式で、文章や漫画を発表中。
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