評者:かげはら史帆
子どもに何かを習わせるとは、その子の身体に歪みを与えることだ。そんな言葉を、10年くらい前にどこかのSNSで見かけ、強烈に記憶に残った。芸やスポーツの型を習熟するとは、まっさらな子どもの肉体を不可逆的に変形させてしまうことに他ならない。もちろんほとんどの親は、そんな懸念など抱きもせずにわが子をお稽古ごとに通わせ、指示されるがまま必要な道具を与える。ピアノとか、ヴァイオリンとか、トウシューズとか、野球バットとか。そして多くの子どもは、実際に身体が変形するよりもはるか前にそれらの道具に飽き、離脱していく。私を含め、世の大半の大人は、歪む努力を怠った肉の持ち主だ。だから私たちが「楽器のお稽古」という言葉から想像するのは、おもちゃのように小さくて可愛い子ども用ヴァイオリンや、発表会でまとうピンク色のドレスや、それらを与える程度のささやかな余裕がある家庭といった、微温的で健全なイメージにすぎない。
加藤綾子は、ヴァイオリンのために変形させられた身体の持ち主であり、その特異性に人生のどこかで気づいてしまった人である。本公演『アイム・ミート!東京公演』は、そんな加藤の自叙伝とも呼びうるレクチャー・パフォーマンスだ。黒のタンクトップに、白のオーバーサイズのTシャツに、ジャージに、スニーカー。どこにでもいるスポーツジム通いの女性のような──つまりはこれから人前でパフォーマンスをするヴァイオリニストらしからぬいでたちで、加藤は来場者を迎え入れる。そして「これからお肉をヴァイオリニストに育てていきます」という宣言のもと、どこのスーパーマーケットにも売っている豚ロース肉のかたまりをわが身に見立て、ヴァイオリニストの象徴たる王冠をかぶせ、さまざまな文言を書いた付箋を貼りつけていく。「せっかくだから、女の子には音楽をやらせてあげたい」「カール・フレッシュ」「作曲家の精神を背負う」「音楽に身を任せる」「きれいな背中」「優雅に歩く」──観客は加藤の指導のもと、それらのメッセージを復唱し、お肉をヴァイオリニストに育てるいとなみに加担していく。

「女の子には音楽をやらせてあげたい」──きわめて平凡な、しかし多くの欺瞞に満ちたフレーズだ。なぜ「女の子」だからなのか? なぜ「音楽」が意味するものが西洋発祥の古典楽器なのか? 加藤はその問いのヒントとして、「音楽取調掛」や「鹿鳴館」という言葉を一瞬ばかり放つ。明治期に日本の高位の人びとが西洋から輸入したのは、音楽作品や楽器の演奏技術ばかりではない。彼らが自国に取り入れようとしたのは、富であり、階級であり、社会のいびつさであり、知識人の高慢さであり、ジェンダー差別である。第二次世界大戦後、日本が高度経済成長期を迎えると、西洋音楽はさらに爆発的に社会に浸透していく。「愛娘が音楽を奏でるリビングルーム」という、19世紀のヨーロッパの市民家庭において幸福の象徴とされた空間が、20世紀後半においては日本の郊外の3DKの団地に召喚され、スズキ・メソードやヤマハの教室が街にあふれ、ピアノが年間30万台売れる。だがクラシック音楽が「平等」であることを証明するかのようなそのユートピアは、つかの間の国力に乗じて現れた幻影でしかなかった。
1993年生まれの加藤は、そうしたユートピアの残照のなかに生を受け、ヴァイオリンのお稽古に通った世代である。J.S. バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータが書かれてから加藤の手にたどり着くまでの300年を振り返ると、うち100年以上は日本国内の歴史だ。アジア諸国はクラシック音楽の先進国であるといわれてすでに久しい。たしかにオーケストラの演奏水準は上がり、国際コンクールでは欧米を含む世界各国のアーティストと肩を並べる実力を発揮する。だがその輝かしい戦績は、日本に生まれた人が何百年も前の西洋の楽曲を弾くのはなぜか、という加藤の問いと葛藤を無効化するものでは決してない。加藤が自身の肉を介して見つめているのは、クラシック音楽やそれを奏でる人びとの栄華の歴史ではなく、その暗部だからである。
ジェンダーについても同じことがいえる。いうまでもなく現代においては、プロフェッショナルの女性クラシック・アーティストが大勢いる。だがその事実は加藤のジレンマを即座に解消するものではない。ユートピアが瓦解したいまでもなお、「女の子には音楽をやらせてあげたい」と夢見る親は大勢いるだろう。なぜ「女の子」だからなのか? なぜ「音楽」が意味するものが西洋発祥の古典楽器なのか? ──そんな疑問などもたないまま。そしてほとんどの女の子は、人生の中途で楽器を持つのをやめ、特にクラシック音楽の愛好家になるわけでもなく、音符を忘れ、奏法を忘れ、自分が普通の肉として生き残れたことを自覚するでもなく、残りの長い人生を生きる。逆説的な言い方になるが、人生の初期に多くの女性が与えられたピアノやヴァイオリンは、身体を歪ませないための予防接種としての役割を果たしている。音感を養ってほしい。豊かな感性を育んでほしい。いい姿勢や上品なしぐさを身につけてほしい。市民社会が幕を開けた数百年前から多くの人びとが楽器に託してきた夢は、「でも“それ以上”になってもらっては困る」という留保付きである。

アフタートークの場で、笙奏者・カニササレアヤコからヴァイオリン演奏について問われた加藤は、「いまさらやめられないだけ」「楽しくはない」という想いを漏らした。だが不思議なことに、その様子に悲壮感はない。公演中の加藤は終始、自然体で、飄々としていて、言葉とはうらはらに楽しそうでさえある。人生の過程で大きな「問い」を手に入れた者ならではの強さがそこにある。付箋を貼られ、ピンを刺され、弓にギコギコ押しつぶされ、ヴァイオリンの形に変形させられた豚ロース肉は、つねにスクリーンで観客の眼前に投影され、死体の写真を見せつけられるような気まずさを与える。だが実際には、スクリーンの前には肉と同期した存在たる加藤がおり、生きて語り、飛び跳ね、顔をゆがませ、笑っている。その存在じたいが観客にとっては痛快であり、また救いである。 公演のなかで、加藤は観客に次々と問いをぶつけていくが、明確な答えを提示するわけではない(もちろん「それでも音楽はやっぱり素晴らしい」なんてことは死んでも言わない。きわめて信用できる)。
答えを言わない作品は果たして「レクチャー」なのだろうか、と疑問に思う人もいるかもしれない。だが本作における加藤は、あるいは豚ロース肉の塊は、多くを言葉には出さずとも、魂の奥底では中指を立ててFUCKと叫んでいる。終盤において加藤は、Tシャツを脱いだ黒いタンクトップ越しの背中を悠々と広げてJ.S. バッハの無伴奏パルティータを弾きはじめる。公演本編において加藤のヴァイオリン演奏を聴ける唯一のシーンであり、加藤が即興演奏に長けたアーティストであることを思い出させる自由で無軌道な変奏が繰り広げられる。観客のほとんどは、そのさまを仰ぎながら同じ問いを胸に抱いただろう。果たして目の前にあるこれを「きれいな背中」と思ってしまうことは許されるのだろうか? と。会場のSCOOLを出て三鷹駅へ向かう中央通りを歩きながら、多くの人たちは、変形させられた豚ロース肉のみならず、自分自身の肉についても考えを巡らせたに違いない。ヴァイオリニストとして育てられたお肉に物語があるのと同様に、ヴァイオリニストにならなかったわが肉にも、わが肉の物語があるからである。

かげはら 史帆(かげはら しほ)
文筆家。東京郊外生まれ。法政大学文学部日本文学科文芸コース卒。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。
著書『ピアニストは「ファンサ」の原点か – スターとファンの誕生史』(ノンフィクション/河出新書)、『ニジンスキーは銀橋で踊らない』(小説/河出書房新社)、『ベートーヴェンの愛弟子 – フェルディナント・リースの数奇なる運命』(評伝/春秋社)、『ベートーヴェン捏造 – 名プロデューサーは嘘をつく』(ノンフィクション/柏書房、河出文庫)。ほか音楽雑誌、文芸誌、イベントプログラム、ウェブメディアに小説、エッセイ、書評、インタビューなどを寄稿。同人活動、Podcast配信も。
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