【劇評】ジェンダーの視点から、クラシック音楽を演奏する身体を問い直す|高嶋慈

評者:高嶋慈

『あなたではない』は、「日本におけるクラシック音楽の女性演奏家の衣装の変遷」について、近代化・洋装化・西洋音楽の移入といった大文字の歴史と、加藤綾子自身の衣装歴という個人史を交差させながら語っていく、レクチャーパフォーマンスである。聴衆の集うホールで演奏する奏者、とりわけ女性演奏家の身体は、性的な消費の視線を向けられつつ、「あくまで上品で優雅で美しくあるべき」とするジェンダー規範を課せられ、「自分自身が何を着たいのか」という意思表明との狭間で葛藤を抱えていることが語られていく。また、クラシック音楽という圧倒的に西洋白人男性が中心的な構造において、非欧米圏の女性演奏家の身体は、近代化の指標としての洋装化と同時に、西洋からのオリエンタリズムの眼差しにもさらされるというねじれを抱えている。ジェンダー規範に加え、西洋化/オリエンタリズムの内面化、ファッション産業という消費資本主義、ルッキズムとそれを加速させるSNSといった複雑な構造が取り巻く場として、「クラシック音楽の女性演奏家の身体」を捉えること。ここに本作の要諦がある。

冒頭、セーラー服を着て登場した加藤は、戦前の女子教育や洋装化の歴史について語り始める。男性よりも女性の洋装化は遅れていたこと(背景には、政治や経済などの公的領域を担う男性は近代化の指標=洋装が推進されたのに対し、女性には家庭という私的領域が割り当てられたという性別役割分業がある)。また、明治期の日本で、クラシック音楽教育は華族の女子のたしなみとして行われた。従って、セーラー服という「制服」を着た加藤は、「明治日本で初めてクラシック音楽を演奏していた女性たち」の身体のありようを再現していることになる。

Photo: Toshiaki Nakatani

舞台の下手にはレクチャーを行なうための机にノートパソコンやマイクが置かれ、上手には様々な衣装がかかったラックが置かれている。そして、パフォーマンスの進行に合わせて、加藤がラックから衣装を取り、実際に観客の目の前で「着替える」行為を行なう点が、本作の大きな特徴である。セーラー服を脱いだ加藤は、黒いズボンと黒いブラウスに着替え、パンプスを履く。かつて「女性があぐらをかくなんて恥ずかしい」とされたズボンは、機能的な衣服になり、「黒」という色もまた、「とりあえず黒を着ておけば大丈夫」という無難さやフォーマルさの指標として重宝されるようになった。「ヴァイオリニストとして一番、人前で着た恰好だと思う」と語る加藤は、モーツァルトの『魔笛』の序曲を演奏する。

中盤では、「機能」「表現」「伝統」という3つの要素から、クラシック演奏家の衣装が紹介される。「機能」の点では、近年、「見た目の美しさ」を保ちつつ、ヴァイオリンを載せる左肩には装飾を排したり、汗を拭くタオルを入れるためのポケットを付けるなど、機能性を重視したロングドレスも登場しているという。「表現」についてのレクチャーでは、加藤はオレンジ色でミニ丈のサロペットに着替え、スニーカーに履き替える。これは2024年のソロリサイタルで着用したものだ。だが、こうしたカジュアルで動きやすいスタイルを選ぶ前は、清楚なワンピースやフォーマルなドレスを着用していたという「ファッション表現の個人史」が、購入金額の高額さとともに紹介される。

Photo: Toshiaki Nakatani

「伝統」についてのレクチャーでは、1960年代に、当時16歳だったピアニストの中村紘子が海外で演奏した際、振袖でショパンを弾いたというエピソードが紹介される。中村と同世代の加藤の師も、アメリカでオーケストラと共演した際、やはり着物を着たという。クラシック音楽=西洋近代化という規範を受容しつつ、海外からは「日本の伝統」として女性演奏家には「着物」が求められるという、ジェンダー化されたオリエンタリズムのねじれた構造。観客の目の前でサロペットを脱いだ加藤は、実際に振袖の着付けを施されていく(なお、振袖を脱ぐ終盤では、ハミングでプッチーニのオペラ『蝶々夫人』のアリアが口ずさまれることで、西洋から「日本人女性」へ向けられるオリエンタリズムが、「非西欧かつ女性」という二重に周縁化された構造であることを示唆する)。

クラシック音楽と人種・ジェンダーを取り巻く構造のねじれや不均衡性は、「AIが生成したクラシック演奏家のイメージ画像」によっても示される。ヴァイオリン、ピアノ、チェロを弾く3名の演奏家は、すべて若い白人女性であり、優雅でフォーマルなドレスをまとっているのだ。ネット上にアップされる膨大な演奏家のプロフィール画像を元に、AIが生成した画像が、これからの「伝統」を再生産していくのか。そこに抵抗・介入する術はないのか。ここで加藤は、「人生初のランウェイを歩くファッションショー」を敢行するので、その写真を撮って「#演奏会コーデ」のハッシュタグを付けてSNSに投稿してほしいと観客に呼びかける。日本初のファッションショーは、三越で着物の女性が行なったという歴史の語りも交差する。ポップなアイドルソングが流れ、振袖姿で踊り狂う加藤は、「日本は、着物を/伝統を/カワイイを生産していますか~?」と呼びかけ、反語的なコールアンドレスポンスの共犯関係に観客を巻き込む。

Photo: Toshiaki Nakatani

終盤、振袖を脱いだ加藤は、ベージュの下着姿になり、ラックから赤と黒の豪華なドレスを取って、そっと抱きしめる。そして、ドレスに着替えた加藤は、カミソリを手に取り、片方の脇の体毛だけを剃り落とす。厳粛な儀式のような空気感の中、加藤は、体毛を剃っていない方の脇を見せつけるようなポーズを取ってスマホでセルフィーを撮影し、(おそらく)SNSに投稿する。

セーラー服、黒いズボンとブラウス、オレンジのサロペット、振袖、そして豪華なドレスへ。実際に観客の目の前で衣装を着替えていく行為は、「教育制度における制服」「周囲から浮かないための無難な準・制服」「オリエンタリズムの内面化」といった歴史的に課されてきた規範を脱ぎ捨てていくプロセスでもある。そして、「“あなたではない”は、否定ではなく、肯定のためのことばです」という加藤自身の言葉が示すように、本作が提示するのは、衣装に加え、「ムダ毛の処理」というジェンダー規範に対する決別でもあった。

Photo: Toshiaki Nakatani

「クラシック音楽の女性演奏家の身体」への着目を、アイドルのステージやファッションショーと掛け合わせた本作は、女性の身体がどこまでも「他者に見られ、消費されるもの」であることをポップなノリで突きつける。また、明治期以降の女性演奏家の衣装の変遷の歴史を辿ることで、日本人の近代化の受容におけるジェンダー差、「上流階級の女子の習い事」としてクラシック音楽教育が導入されたこと、AI生成画像に顕著な白人中心的な価値観、オリエンタリズムの内面化、ルッキズムとSNSといった多様な論点を含むものだった。

こうした問題系は、さらに深めて掘り下げる余地が残されているだろう。また、演奏家の衣装において、男性は黒を基調とした燕尾服やタキシード、女性は華やかなワンピースやロングドレスが主流であるように、「クラシック音楽の演奏を行なうこと」自体、性別二元論に基づき、強固にジェンダー化されている。例えば、近年、機能性の重視や生徒の性自認に配慮する観点から、中学・高校の制服のジェンダーレス化が進んでいるが、クラシック演奏家の衣装においては、ジェンダーレス化はどの程度進んでいるのだろうか。また、本作は、あくまで「女性演奏家であること」を前提としていたが、例えば、女性・男性のどちらにも性自認が当てはまらないノンバイナリーの演奏家にとって、ジェンダーレスな衣装の選択肢があるかどうかは切実な問題である。ジェンダーという視点からクラシック音楽を見つめ直す営為は、汲み尽くせない広範な射程を備えている。


高嶋 慈(たかしま めぐむ)

美術・舞台芸術批評。近畿大学文芸学部芸術学科非常勤講師、京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン『artscape』にて連載。ジェンダーやクィア、歴史の(再)表象などを軸に、現代美術とパフォーミングアーツを横断的に批評する。
近刊の共著に『歴史・批評・芸術 005』(D/C/F/A・ユミコチバアソシエイツ、2026)、『鷹野隆大 カスババ ─この日常を生きのびるために─』(水声社、2025)、『今井祝雄 長い未来をひきつれて』(水声社、2024)、『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』(美術出版社 、2023)。

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