最近、していることと考えていることを書きます。
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キャンセル、告知、キャンセル、助成金
目下、新型コロナ第六波中ということもあり、予定していたイベントが消え、かと思えば突発的に新たなイベントが現れ、という繰り返しです。また助成金関連の事務手続きが遅れに遅れていて、仕事が飛んだのをいいことに鬱々とした書面との睨めっこです。こんなことはもう2度とやりたくない、と思う反面、今度は自分がもっとちゃんとやって周囲に還元したい、という気持ちもあります。複雑骨折心境。
インプロ・りぶる
2022年1月にオープンし、思った以上の反響をいただいた、即興演奏専門にして入門メディア「インプロ・りぶる」。こちらは書きたいネタがあるものの、書くならばいろいろ読んでみようと思ったのが罠、書きたいことは大概すでに書かれていて、自分が書く必要なんてないじゃないか、という袋小路にさっそく詰まっています。
とはいえまったく行き詰まったわけではなく、即興関連のさまざまな情報をまとめるところから始めています。ただこれが単純そうで難しい、たとえば全国の即興セッションを調べようと思っても、定期的に開催されているにもかかわらず、その情報がアーカイブされておらず詳細不明、とか、出てくるのは首都圏の情報ばかりで全国の情報はグーグルだけでは厳しい、とか、いろいろあります。無理のない範囲でがんばります。
また、「りぶる」についてはこれから、各方面のライターの方に寄稿の依頼を思っています。これは「りぶる」を立ち上げると決めた時から考えていたことでした。
ライターの方が提示する金額にできるだけ添うこと、たとえライターの善意であっても、無償での依頼は絶対にしないこと、そのうえで事業として回してゆく、つまり各方面のライターと「りぶる」、双方がビジネスとして成り立つやり方を模索してゆく──というのが、私が考える「りぶる」の裏テーマです。あと、シンプルに執筆と調査に時間を取られ過ぎていて、他のことが手につかなくなっています。助けて下さい、お金はお支払いします。
しかし困ったことがひとつ。私は、人に仕事を発注するという行為にまったく慣れておりません。冷静に考えて、これって、やってること編集とかそういうことだよな? まったくやったことないし、見切り発車なんだけど、だいじょうぶ? こう、エラい人の地雷とか踏み抜いてない? などと戦々恐々です。なんかやばいことあったら、こっそり教えてください、善処します……
EP制作
3月頭、BandCampFridayに合わせて4曲程度の新作即興を取り下ろしたEPをリリースします。書いた。書いたぞ。絶対やるぞ。よろしくな。
個人レッスン
募集中です。とくに大人の方、たぶん私は教えるの上手いです。春先にはリモート相談会、ヴァイオリン体験会などしたいところです。詳細とお問合せはこちら。
ところで私は、本当は「レッスン」という呼び名をできるだけ避けたいのですが、やはり何も知らない人からすると「レッスン」がもっともわかりやすく、また検索でもヒットしやすいということで、悩みつつ使っています。無力。
演劇について
イベントや仕事が飛んで(何度目)、時間が生まれ、俄然、興味を惹かれているのが演劇です。
演劇とひとことに言っても英国・欧州の古典や、インプロ劇などさまざまですが、私が惹かれているのは演劇そのものというより、演劇の公演作りです。
きっかけは2021年年末にあったトーキョーコンサーツ・ラボ企画公演〈ごろつく息〉でした。チューバの坂本光太さんと、演出家の和田ながらさんが中心となってクリエイションを行い、実演された公演でした。この公演は私にとってものすごい衝撃でした(本当にこの年末は良くも悪くも、揺さぶられる公演が多かった。疲れた)。──私がなすべきことは、「コンサート」でなくてもよいのではないか?
また、2022年5月には俳優・岡本唯さんとの企画公演が決まりました。演劇の方と企画を組むのは、正真正銘、はじめてのことです。ここで、演劇のことをなんにもしらずにまっさらな状態でリハーサルを重ねることも考えたのですが、去年末〈ごろつく息〉で受けた衝撃と、たまたま公開中の「りぶる」の事情もあって、演劇についてかじらないわけにいきませんでした。それは「しなくてはいけない」ではなく、演劇というなんだかおいしそうなリンゴが突然目の前に転がってきて、しかもだんだんこちらににじり寄ってくるので、かじりつく欲求を抑えずにはいられなかったのです。
私はここ何年か、自分が企画として関わる音楽公演について、音楽的ではない視点を持つようつとめていました。パフォーマンスのこと、コンセプトのこと、観客のこと、事務周りのこと、お金周りのこと。それらに関していつまでも「音楽家」目線で見ていると、あらゆる意味で行き詰まってしまうし、どんなに自信のある内容でも、その企画自体が続かない。一回やり遂げることより続けること、その企画を回すことに重きをおいた私のやり方は、しばしば周囲との衝突を生んだ自覚があります。ごめんなさい。
けれども現実問題、感染症云々を除いたとしても、公演を企画・実施するという行為は、もはや博打です。その博打を一発打ってぜえぜえ息切れ、残るのはほんのわずかな利益だけ、というやり方は、私の懐事情としてもたいへん厳しい。
「コンサートのいいところでもあり悪いところは、とりあえず曲を並べて演奏できれば成り立ってしまう」ことだと、知人に言われました。しかし演劇を作る人は(すくなくともオリジナルから成り立つ舞台いは)、まず、何に興味を置き、何を目的とするのか、そこがかたまらなければ創ることさえままならないようです。たとえば演奏家と役者が、おなじ舞台に立つ。なぜ? なぜ演奏家と役者でなければいけないのか? なぜ私とあなたなのか?
きっかけは「なんとなく面白そう」であったとしても、その日そこに観客という第三者が──お金と時間という莫大なコストを支払ってくる人が──いる以上、いくつもの「なぜ?」を問いかけ、クリアしなくては、その公演を、ステージを創る意味が、そもそもない。
演劇と音楽には多くの共通点があるにもかかわらず、それらを作る人には、まったく違う世界が見えているような気がしてならない。それは役者と演奏者もそうです。同じように舞台に立ち、演じるという意味では同じはずなのに、彼らと話し、彼らが行っていることを見ていると「なぜ私はこんなことにすら気が付かなかったのだ」と打ちのめされるのです。
たとえば舞台における体の位置。私は、舞台なんて真ん中に立って当然だと思っていた。たとえば目線と表情。私は、客席を見ておじぎして、あとは知らんぷり。たとえば舞台における「フィクション」。
芝居でなされることがすべてフィクションなのだとしたら、音楽でなされることもそうであると、なぜ気づかなかったのだろう?
ソロ・リサイタル
今日ここに書いたことは、2022年9月のリサイタルに関係するかもしれないし、しないかもしれません。
あのリサイタルについて、半年以上前という早い段階でプレスリリースを開示した理由は、こういうことです。あのリサイタルは2022年9月25日だけのものではなく、こうしてあなたとともに時間を過ごし、育ち、私の中で鎌首をもたげながら進行してゆくものです。
今年おこなわれる自主企画は、もちろんそれぞれが独立したものですが、私の中では明確なつながりと意図をもって、9月25日に繋がっています。個々の企画自体に影響はないし、共演者だってもちろん、そんなことは関係ない。ただ、私自身が、今年のありとあらゆるステージとあのリサイタルを、勝手に、常に、有機的に結びつけてゆく。
9月25日までの私の行為と思考が、これから、あのリサイタルを作ってゆく。
そのありさまを含めて、2022年のソロ・リサイタルは成り立ちます。
それでは。