WORKS

[lp-h2 style=”1″]Improvisations for Movie[/lp-h2]

Music/Making movie
How to make an improvisation with movie ?

[2col-box] [2-left] [lp-h2 style=”1″]Writing[/lp-h2] [/2-left] [2-right] [lp-h2 style=”1″]Programme Note[/lp-h2] [2col-box] [2-left] [ac-box01 title=”S.プロコフィエフ作曲:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ へ短調 第1番 作品80″]

 

ソヴィエト連邦という国が、国内の文化人・芸術家等に対して苛烈な粛清を行っていた事実は、いまや周知となりつつある。

もちろん、ここに挙げるセルゲイ・セルゲイエヴィチ・プロコフィエフも例外ではない。政府からも民衆からも、ひいては世界中から支持されていた作曲家の名声は、1948年の2月、政治的な批判によって奪われる。

その5年後、1953年3月5日。かつての妻を強制収容され、書き上げる作品も冷遇され続けていたプロコフィエフは、よりにもよって、彼を弾圧してきた体制の頂点・スターリンと同じ日に亡くなる。享年62歳。数日後に行われた葬儀の列もまた、スターリンと同じ日、同じ街を歩むのだった。一つは大勢の群衆に囲まれ、もう一つは、小さな人々の小さな肩に担がれて。

音楽院在学時から賛否両論、注目の的だった若きプロコフィエフは、1918年、国内の混乱と前後するタイミングで出国した。しかし彼は、フランスやアメリカなど、西洋音楽の先進国を回る(道中、日本にも立ち寄る)も、最終的には、祖国に自分の音楽の居場所を求める。──これから帰る祖国が、一体どんな状況なのか理解できぬまま。

それは、帰国後も同じことだった。第二次世界大戦中には「大祖国戦争」の勝利を願う交響曲第5番で成功を収めるなど、多くの「社会的」成果も生んだプロコフィエフだったが、体制との齟齬はごまかせない。大戦勝利の陰にあった数多の犠牲、自身の病状の悪化、戦勝国でありながら毫も変らない粛清は、まぎれもない現実だった。

いつ、どこで、誰が、何を見ているかわからない世界。

終戦から1年後にして、ジダーノフ批判の2年前──1946年に完成されたこのへ短調のソナタに、喜びと栄光は墓標のように現れる。祖国に光を見出した作曲家は、遠くない未来、その祖国に裏切られることを予期していたのかもしれない。

 

第1楽章:Andante Assai

重く、沈痛なピアノの足取りが、このソナタ全体の行き先を示すよう。ヴァイオリンは言葉にならない旋律やピッツィカートを重ねながら、墓場に吹きすさぶ。

第2楽章:Allegro brusco

第1楽章とは打って変わって、単純な2分の2拍子で演奏される急楽章。中途、ヴァイオリンによって奏される凱旋のテーマには、「eroica」の文字が添えられている。

第3楽章:Andante

第2・4楽章のような強烈さはほとんどなく、奇妙で幻想的な安堵感がある。遠くでだれかが撃ち殺される音が聞こえても、それはきっと、自分には関係ない。

第4楽章:Allegrissimo

喜びに溢れていた音楽は、次第に様相を変えて行く。一瞬の油断も許されない緊張感がピアノとヴァイオリンの両者に満ち、再び墓場の風が荒れ狂うと、気が付いた時にはもう遅い。墓標の前にひとり立ち尽くして、かつての思い出をしのぶより他にないのだ。

[/ac-box01] [ac-box01 title=”W.A.モーツァルト作曲:オーボエ四重奏曲 KV340″]

 

オーボエ奏者はよくハゲる。まず、チューニングの「A(ラ)」の音からして気を使う。いざ曲が始まっても、多すぎる音数に舌がつる。そうして蓄積されていくストレスは、あっという間に彼ら彼女らの頭を砂漠へと変えてしまう。

そんなわけで、1777年のマンハイム、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが出会った、フリードリヒ・ラムというオーボエ奏者は稀有な存在だった。第一に、ラムはハゲていなかった。第二に、ラムはモーツァルトを尊敬していた。そして第三、モーツァルトが旅行生活を始めたのは13歳のことだったけれど、ラムは14歳でマンハイムの宮廷楽団入団を果たしたツワモノだった。ハゲていないだけのことはあった。モーツァルトはラムと親交を深めていき、曰く、

”……カンナビヒの家で、カンナビヒ、その妻および娘、会計主任殿、ラム、およびラングなどの面前で、そしてこれらの人々と共々に、しばしば、そして、きまじめではなく、まったく気がるに、しかもただただ不潔なもの、つまり汚物とか、脱糞とか、尻舐めとかについて、語呂合わせをしましたこと、慚愧に堪えません。”(引用元:『モーツァルトの手紙 上』柴田治三郎編訳 p.87)

当時、モーツァルトは二十歳、ラムも三十路を越えていたはずだが、いい歳こいた大人たちが揃って何をやっているのか。パパも悲しいが私も悲しい。(ちなみに、この時期に並行してあの有名な『ベーズレ書簡』を綴っているので、額面通りに受け取ってはいけないのかもしれない)

そんな二人の出会いから間もない1778年、モーツァルトは『フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための協奏的交響曲 KV297b』(オリジナルの消息は不明)で、ラムのためのオーボエパートを執筆。そして、そこからさらに2年経った1780年末から81年頭、ドイツ・ミュンヘンの冬真っ只中──このオーボエ四重奏曲は生まれたとされる。

この楽曲をラムに捧げた・依頼されたという明確な記録は手持ちの資料で確認できないけれど、この頃、2人が時を同じくしてミュンヘンにいたことは間違いないし、決して浅くはない付き合いだった友人のオーボエを、モーツァルトが意識していなかったとは考えにくい。

第1楽章:Allegro

実際に演奏してみるとよくわかるけれど、この楽曲は、全楽章通してオーボエをほとんどソリストのような立ち位置に置く。第1楽章から技巧的なパッセージの挿入に余念がなく、第3楽章でそれはピークに達する。

第2楽章:Adagio

モーツァルトは、ラムの演奏を「きれいで繊細な音」と評した。パート譜で半ページにも満たないこの第2楽章は、その「きれいで繊細な音」を念頭に置いていた気がしてならない。

第3楽章:RONDEAU Allegro

日本人が大っ嫌いな8分の6拍子である。まずはpでオーボエがテーマを提示し、ヴィオラ・チェロがわずか1小説でヴァイオリンのfへ橋を渡す。なんども繰り返し登場するこの流れがとてもチャーミング。ヴィオラ・チェロが気合いを入れすぎてすっ転ぶところもチャーミング。

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