好きなものを好きと言えない、そんな空気が、わたしは大嫌いである。
「あんな演奏好きとかないわー」
「おれ、あの演奏好きなんだよね」
と誰かがいうと、
「え、あんなのが好きなの?」
「あの人あんなのが好きなんだってーわかるー(暗黒微笑)」
みたいなやりとりが、教室、ホールの控え室、トイレの整列、──どこかこの世界の片隅で、かならずと言っていいほど起こる。
たしかに、趣味嗜好をはじめとする価値観は、その人自身を象徴していることもある。
が、そんなもんしょせん、個人の一側面に過ぎない。
ましてや、その人がどんな多面体であるかもわかっちゃいないのに、「あんなの」が好き=あの人ないわー、という図式が、一部の人たちの間ではできているのだ。
ちと短絡的すぎやしないか。
「そんなことが好きだからあなたの音楽は」
でもこれは、音楽や演奏に限ったことじゃない。
「あの演奏家が好き」「あの作品が好き」から転じて、
「あの絵が好き」「あのバンドが好き」「あの作家が好き」「漫画が好き」「映画が好き」「書くことが好き」「読書が好き」「ゲームが好き」「運動が好き」
ありとあらゆるたったひとつの「好き」で、個人の評価が決められてしまう。そんな風潮が、少なくともわたしが関わってきた世界の一部にあった。
以前、わたしはこんな記事を書いた。
これ自体はどうということはない記事に見えるけれど、個人的にはけっこうドキドキしながら書いた。なぜって、わたしにとって、
クラシック音楽を専門にしている人間がゲーム音楽について語る
という行為は、現実に、だれかと面と向かっては、とうてい行えないものだったからだ。
子供のころから、わたしはヴァイオリンをやっていたけれど、ゲームやアニメも好きだった。それらに関する音楽もよく聴いた。
でも、そういう音楽を聴いていると、周りの人によく言われたもんである。
「そんなのばっかり聴いてるから」、と。
「ねえ、◯◯ってどうおもう?」
いまはたぶん、みんな、も少し心が広い。
プロのオーケストラが映画音楽やアニメ音楽を(演者の内心はさておき)演奏することもそんなに珍しくないし、いま第一線で活躍している演奏家たちが実は◯◯好きでした──なんてのも、微笑ましいエピソードとして数えられているとおもう。
それでも、演奏家や演奏家のたまごのあいだでは、やっぱり、こういう叩き合いは存在している。
あの人はああいうのが好きなんだって。だからああいう演奏をするんだね。
これがポジティブな評価ならまだしも、たいてい、そういうものさしで人を見る方々は、ネガる。これでもかとネガる。
で、大人になるにつれみなさん、そういうネガる/ネガられる空気を察するので、お互いの趣味嗜好について口にすることを憚るようになる。わたしなぞは、うっかり話そうものならドン引きされること間違いなしなので、基本的にそういった類の話はあいまいな笑みでごまかしている。
が、タチが悪いと「ねえ、◯◯ってどうおもう?」などと誘導尋問を行ってくる玄人もいる。
もちろん悪意のないことも、ある。でも、なかにはまるで、下世話なワイドショーじみたノリで突かれることも、ある。
勘弁してほしい。
好きなものくらい好きだと言わせてよハニー
「わたしはこれが好きだよ」
「そうなんだ、わたしはこれも好きだよ」
──わたしの身の回りで、こういうサクッとしたやりとりは、ほんとうに、寂しくなるくらい少なかったように思う。
なにが好きか。そんなもの、本来、その人の評価や価値を決めることではなかったはずだ。
それすら口にできない空気の押し付け合いが、いったい、どんなゲージュツを生むというのか。
いいじゃねえの、好きなものくらい。
好きなんだから好きに語らせればいいものを、そして好きじゃないなら会話に参加せず「ああ、この人はわたしと違う趣味なのね、なるなる」と思ってりゃいいものを、どうして、ネガってディスらにゃ気がすまないのか。
好みひとつで、人の価値が決まってたまるものですか。
「好き」ということばが、もっと軽いものになればいい。
音楽ではなく、音楽にまとわりつく空気が、必要以上に重くて粘っこい。そんな気がしている。