音楽

クラシック音楽は楽しくて、素晴らしくて、「良いもの」なのか?

「音楽は『良いもの』なのか?」

「あなたの苦しみは音楽に関係ない」

オチから言ってしまえば、

「音楽は『良いもの』とは限らないし、音楽を信じられなかったり、『音楽が好き』と言えなかったりする人でも、音楽を行ったって構わない」

と、私は思っている。

 

とりわけ、私が主な生活圏にしているクラシック音楽近辺の世界において、「音楽とは、それに関わる人々を幸福たらしめる/感動を与える/楽しませる/崇高なもの」≒「音楽は良いもの」という認識がとても強いように感じる。(なので、今回は『音楽』と一口に言っても、クラシック音楽とそれに関わる人たちに絞っておく)

どういうことかというと、

「私たち(音楽家)は人を喜ばせるためにいる」

「音楽は人に感動を与え、喜びを与えるもの(=だから、音楽が好き)」

さらに転じて、

「あなたが苦しんでいることなんて、聴いている人には関係ない」

「人は、あなたの苦しみが聴きたいわけじゃない」

「どんなに辛くてもステージの上では微笑みなさい。後ろ向きなことを考えていたら、とても音楽なんてできない」

しかも、

「音楽を勉強して仕事をしているからには、当然、音楽が好きなんでしょう?」

「好きなことを仕事にできて幸せだね」

などなど、「音楽(音楽家)=良いもの」という図式が、少なくとも私の周囲には頻繁に垣間見える。なるほどそりゃあ、腹痛でも抱えていそうな顔で登場したら心配されるだろうし、緊張や不安によって演奏が乱れてしまうなんてことは、プロにあってはならないかもしれない。「俺は苦しいんだよ辛いんだよ5分だけでいいから聞いてくれ」と歌って許されるのは横山剣だけである。

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「音楽は良いもの」信仰がもたらすもの

ただ、音楽を鑑賞する人も、音楽を行う人も皆、「音楽は良いもの」と思い込みすぎて、却って、音楽の幅を狭めてしまっているのではないか?──という気がしてならない。

 

ここでいう「いろんなもの」とは、音楽そのものの解釈であったり演奏であったり、企画内容であったり宣伝方法であったり、果ては仕事の内容から人間関係であったり、ともかく、「いろんなもの」である。

なぜ、演奏者はコンサートの内容に関わらず笑顔で登場しなくてはならないのか。なぜ音楽家は前向きに心を開いて常に向上心に溢れていなければならないのか。なぜ女性は華やかなドレスと化粧を、男性は燕尾服やスーツやタキシードを求められるのか。モーツァルトの音楽は誰でも親しみやすいとされ、近現代の作品は訳がわからない、即興演奏なんて聴いても面白くない、クラシック音楽は高尚で素晴らしいもの、演奏家は皆一様に笑顔の写真、けれどそれは誰に向けた笑顔なのか。なぜ音楽家は人を、自分を愛せなくてはならないのか。

 

なぜ音楽は「良いもの」として受け入れられているのか。

 

これらの「なぜ」に対する答えは、きっとそれぞれ信ずるものがあるとして、しかしこれまで、本当に音楽は「良いもの」としての側面しか持たなかっただろうか。クラシック音楽と呼ばれるものは、どうして今日まで残ってきたのだろう。だって世の中、「良いもの」なんて、音楽よりよっぽどコスパのいいものが、腐る程存在しているじゃないか。

音楽はこんなにも良いものなのに。人々の傷を癒し、人々に幸せを与えてくれるのに。

音楽に感動する人々が訴えれば訴えるほど、音楽に関心のない人々との隔たりは、悲しいくらい広がっていきました。

なぜなら、今を生きる大半の人々にとって、「良いもの」も「素晴らしいもの」も、音楽である必要はないからです。そもそも良いものが必要かどうかさえ、定かではないからです。歴史や、需要や、文化や、そんなものは関係なく、必要でないのです。

(中略)

この音楽が、もし、いついかなる時も正しく、素晴らしく、良いものでしかなかったのなら、きっと今日まで愛されてこなかったし、そもそもこの世に生まれることすらなかった。

音楽は、ちゃんと人を傷つけることだってできる。

 

「コンプレクス。」プログラムノートより

クラシック音楽界は「つまらない」のか?

音楽に限った話じゃない、古今東西、人も芸術も政治も何もかも、あるひとつの側面が押し出されてしまうと、他の側面はあっという間に押しやられ見えなくなってしまう。結果、音楽の聴衆はもちろん演奏や創作、企画する側まで息苦しさを覚えてしまったのでは、とてもかなしい。

 

が、

じゃあ、「なるほどなるほどクラシック音楽の世界ってそんなに息苦しいのねかわいそうにねよしよし、まったくつまんない世の中だわね」なんてこたあ言われたくないし言ってほしくねえのである。

 

ここまで能書き垂れといてなんだけれど、私は決して、そう言った「良いもの」としての側面が押し出されているクラシック音楽そのものを否定するつもりはない。「音楽は良いものとは限らない」、つまり、「音楽には「良いもの」以外の側面もあるんじゃないのか?」と言っているだけで、「良いもの」としての音楽を否定する気は全くない。

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「よそ者」にならないために

私個人について少し書く。私は、まぎれもなくクラシック音楽をやってきた人間で、そのくせ私は、ありとあらゆる意味でクラシック音楽家らしくなれなかった。だから、私は「クラシック音楽家たちが見て、聴いているものの少しでも近くに行きたい」「自分も『良いもの』でありたい」「クラシック畑の音楽家でありたい」と、強く願い続けている。

 

正直申し上げれば、今のクラシック音楽界に生きていて、「息苦しい」と感じる瞬間はけっこう、ある。

けれどそもそも、クラシック音楽が日本に定着するまでの道のりを鑑みれば、あるいは、それぞれの瞬間において「息苦しい」と感じること自体が間違いなのかもしれず、何より私は、それでもその世界でタフに生きる人・生き抜いてきた人たちの音楽を、掛け値無しの「良いもの」だと思うのだ。

 

レッスンでオーケストラでコンクールで受験でセミナーで仕事でコンサートで、たかが26年に届く程度の人生、間近で観て、聴いて、その度に打ちのめされ、「所詮私はあの人たちにはなれなかった」と気が狂いそうなほどに嫉妬し、そんな私など視界にも入れずこの畑を生き続ける、正真正銘の音楽家たち。

この足をこの場所から動かしたが最期、私は結局、彼らから背を向け、「そっちの道」にはみ出た、完全なよそ者になってしまう。それが怖い。

 

私は、私の振る舞いや行い・言動が、どんなにクラシック畑のそれとかけ離れていたとしても、この足だけは動かすまいと思うし、そうでなければ「音楽は良いものなのか?」という問いかけ自体もまた、意味をなくしてしまうと思う。

グレーなクラシック畑でつかまえて

私は、私自身が「良いもの」を信じきれないからこそ、良いものに憧れ、彼らと同じ空気を吸っていたい。

ただ、このままではその空気も成層圏突破、みんな揃って窒息死の予感がするだけで、もう少しグレーなクラシック音楽畑の人間が(あるいは立ち位置が)存在を許されたらいい。そのために、「音楽は本当に良いものなのか?」という疑問は必要なんじゃないか──そんな風に、いまは考えている。

 

なお、今回こんなことをまとめようと思ったきっかけに、冒頭にも記載した「メルキュール・デザール」誌のリサイタル評があります。こちらで的確な批評をいただき、自分で自分の居住まいを、いちど、正しく見つめ直したい、と思った次第。執筆してくださった近藤秀秋氏、並びにメルキュール・デザール誌に改めて感謝申し上げます。

 

ABOUT ME
加藤 綾子
ヴァイオリニスト。 BIOGRAPHY
《ムジカコスモス》on YouTube.

森下由貴・加藤綾子によるヴァイオリン二重奏コンサート、《ムジカコスモス》のYouTubeチャンネルが公開。公演ダイジェスト、貴重なレパートリーのフル動画も収録予定です。

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