うしろ向きの呟き

穴の掘りかた

誰にでも穴はある。

 

たかだか25年の人生だけれども、なんだかんだ人生の4分の1を過ぎた。

ついでに言えば、これが4分の1だという保証もない。もっと長いかもしれないしもっと短いかもしれない。あしたには死ぬかもしれない。今日の南蛮チキンが最後の晩餐となり、これから書く記事が最後のものになるかもしれない。そんなことは誰にもわからない。

ただ、1つだけわかることがある。

子どもは、私のような人間の言葉にだって傷つくことがあるし、なんなら、その言葉がその子の一生を左右するかもしれない。

 

少なくとも、私の25年間の人生ではそうだ。

 

子どもには、スレた大人というものは案外わかると思う。

ただ、もともとその大人を信頼していたなら別である。スレた大人をハナから信じ込み、スレた大人のスレた言葉を鵜呑みにしていれば、いつか、どこかでひずみが生まれる。

 

私は、具体的に、はっきりと、何を言われたのかまでは覚えていない。ひょっとしたら大人たちは何も悪意などなかったのかもしれないし、もっと言えば、私の将来を慮っての言葉だったのかもしれない。

はっきりとした記憶なんてない。きっと、大したことではない。

でも、言葉というものは、形を残していくのではない。残るのは穴だ。言葉は言葉の形そのままに穴を穿って、それは少しずつ形を変え、深さを変えながら、穴ぼこだらけの人生が出来上がっていく。

もっと言えば、大人になってからだって同じだ。ただ、大人になってからの穴は、その形が鮮明に残る。だから、子どもの時のそれより苦しいこともあれば、正体がわかるぶんそんなに怖くないこともある。

 

子どもは脆い。子どもは無邪気だ、かわいいものだ、というけれど、私にはとてもそうは思えない。

そりゃ、端から見ていればなんだってかわいい。無邪気にだって見える。でも、子どもにだって屈託があるはずだ。大人から、あるいは子どもから空けられた穴が、たとえ小さくてもあるはずだ。どんなに恵まれているように見えていても、穴ぼこだらけの子どもがいるはずだ。

ましてやそれが、自分と血の繋がっていない子どもなんて。

 

私は結局のところ自分のことが一番である。きっと、親ですら、友人ですら、いくら秤にかけたところで、最後には自分のことを選ぶのだと思う。仮に親や友人を選んだとしても、それは結局「自分が苦しまずに済むから」という理由なのであり、私はどこまでもどこまでもエゴい。

だから子どもが怖い。

私のせいで、誰かの一生を左右したくない。

自分がそうであるように。あなたがそうであるように。今も、こうして、何かの弾みに穴がひりつくたびに。

 

誰にだって穴はある。たぶん、誰しもが、その穴を通して人を見ている。

ABOUT ME
加藤 綾子
フリーランス音楽家という名のフリーター。 後ろ向きだっていいじゃない 人間だもの あやこ という意識の低さで生きている。ヴァイオリン演奏・ライティングなど、お仕事のご連絡はこちらにお願いいたします。ayakokatovn@icloud.com