わーいシャバだ!娑婆の空気だ!!!シャバシャバシャバシャバ
と思ったけど買い物クッソ緊張したしテンパっていちばん必要だったゴミ袋買い忘れたのでこれから泥の底のように落ち込みます pic.twitter.com/6TeULKt9jj— 加藤綾子 Ayako KATO (@akvnimp) March 26, 2020
2週間ぶりのシャバの空気、まる1ヶ月ぶりのスーパー、そしてなにしろ私はチキンやろう、アジア人のちんちくりんがこんなところをほっつき歩いているだけで白い目で見られそうで、とにかく必要なものだけとっとと買い込んで帰ろう、と必死に早歩き、ところが店内、およそ外出禁止令が敷かれているとは思えぬ人の多さに、そしてショッピングカートの利用が義務化されていたことに気がついて、テンパった挙句にゴミ袋を買い忘れた。
桁が変わった日
ベルギーでは、これを書いているきょう(2020年3月26日)、1,298人の新たな感染者の確認が発表されました。新たに確認された死者は42名。今までも毎日、数百人の感染者が報告されてきたけれど、桁が違う。
自分が感染するかどうかより、自分が菌を持っている前提で動かなくてはいけない。もう、とっくにそういう段階にこの国はなっていて、ましてや私は「外国人」、ひと目でわかる「アジア人」である。私の一挙一動が、誰に何をもたらすかわからない。いつ、どこで、誰が何を見ているかわからない──日本で職業音楽家の端くれだったころの、なつかしい肌触り。
「私こそは新型コロナウィルスの保菌者かもしれない」
考えすぎ、気にしすぎだよ、という人もいる。でも、現実問題、世界中あちこちで今日も多くの人がこの病気で亡くなっていて、それに関わる人たちがまたいわれのない謗り罵りを受け、「ヨーロッパから帰ってくるな」「アジア人は国に帰れ」「病より経済で人が死ぬ」「イベント自粛は自己責任」エトセトラエトセトラ、澱んだ空気とその病原菌は、私のせいでまたあちらへこちらへ広まるかもしれない。
実際のところ、きょう行ったスーパーが、万全の体制であったかというと、そうでもない、と思う。人の出入りは普段よりは少ないかもしれないけれど、外出禁止令が功をなしているのかはよくわからない(もともとナミュールのさらにまた郊外という、人気の比較的少ない地域なので)。
店内ではマスクを着用していない店員の方が目立ち、その上彼らも大声喋り散らす飛沫飛び散らす、狭い回転扉のなかに赤の他人同士が同時に立ち入るわ、そもそもその回転扉の前には、陽気にギターを鳴らして歌う物乞いのおっちゃん二人と犬が1匹、「社会的距離」クソ食らえで寝そべっていた。──けれども、そのおっちゃんたちに菌をうつすのは自分かもしれないし、ばかでかい声でしゃべっていたおばちゃんに「Bonjour」のひとことで病をもたらすのは自分かもしれない。たとえマフラーで口元を隠していても、距離を保ち、接触のないよう気を配っていても、絶対なんてものは存在しない。
ちなみに、ショッピングカート利用については「社会的距離」(distance social)を保つための措置だそうです。
Coronavirus en Belgique: pourquoi les supermarchés vous obligent à utiliser un caddie?(外部リンク・仏語)
わずかでも「帰りたい」と思うことは罪なのか
一方で、私はもう新型コロナウィルス関連が沈静化するまで日本に帰らないと決心しているけれども、「日本に菌を持ち帰るな」「あなたが帰れば自分の家族を殺すことになるかもしれない」「お前が帰ってこれるかどうかなんてどうでもいい」──という正論はごもっとも、けれど実際、10代かそこらの、親と離れ離れ、いつ自分が帰国できるかもわからず、いつ自分が保菌者になるかもわからず、遠い異国の地でひとりぼっちで過ごさなくてはならない学生を、想像したことはあるか。こんな状況でさえ「外国人」であることを意識して、神経質にならざるを得ない、その隙間にわずかでも「家に帰りたい」と思うことは、罪か。
そうとも私だって、本音を言やあ、帰りたいと思う瞬間はあるさ。バルトークの誕生日がどうした、音楽がどうした、シャバの空気がどうした、そんなことよりいますぐ日本に帰ってれんれんとぬくぬく14日間の蜜月を過ごせるならばそれ以上に幸福なことはありゃしない、私には所詮、帰る場所がまだあって、こっちに骨を埋めるほどの実力も覚悟も、今はない。ひとたびあそこへ帰ることができたのなら、買い物ひとつ行くのに、こんなに神経を尖らせなくていいだろう。毎日毎日山のように更新されていく「Coronavirus」のエントリはとても追いきれないし、すこしタイムラインに目を滑らせれば1を2という人、そもそも1が間違いだという人、──次第に、だれもが自分を責めているような気にさえなってくるのだ。
──だからお前なんて、どこでも、やっていけないよ。
こんにちは世界
私はこれまで「強さ」「明るさ」「前向きさ」「タフ」といったことばを忌み嫌い、できうる限り使わないようにしてきた。正直に申し上げれば──もちろん、表向きはそう振舞わなければならない苦しさも承知の上で──この新型コロナ云々を受けてネット上に充満した、「こんなときだからこそ前向きでエネルギッシュな音楽家たち」の像に、げっそりもした。
けれども結局、これから、少なくともここにいる限り私は、もっと「強く」、賢くならなくちゃいけないんだろう。単純に、いろんな、いろんな人のために、私はもっと広い視野を持たなくちゃいけない。速やかに、けれども堂々と歩かなくてはいけない。私は絶対に帰らない帰れない、けれども誰かが「帰りたい」と思うことは罪じゃない。罪があるとすれば、それはきょうの私のような視野の狭さとか、無知とか、そういうものだ。どのみち29日から飛行機は飛ばなくなるし、帰国なんて物理的に不可能になる。
そしてもちろん、私はこの国に来てまだ半年かそこらで、感染症のプロでもなんでもない、ただの、いい歳こいた留学生です。やれることをやる、つまり、家にいろ。
今日もあしたも、私は元気です。
#confinementjour9 Belgique
Ysaÿe: Sonate pour violon seul Nº 5, Danse rustique
イザイのソナタ5番、第1楽章もこの第2楽章も、完全に協和する響きが最高に美しいのだけど、道のりは遠い pic.twitter.com/mAUO0kKhck— 加藤綾子 Ayako KATO (@akvnimp) March 26, 2020